第2話
翌朝、ヴォルフォード公爵邸の食堂に、嵐が来た。
嵐の名前はカトリーヌ・ヴォルフォード、四十五歳、公爵夫人である。
「あってはならないことです。公爵家の長女を、あのような場で、大勢の前で。しかも一言の相談もなく」
テーブルの向かいに座る夫、ハーヴェイに向かって、カトリーヌは朝から怒りをぶつけていた。いつもは穏やかな婦人だが、今朝ばかりは声が上擦っている。目が赤かった。昨夜、泣いていたのだろう。
エリナは二人の間に座り、スープを静かにすくっていた。
「王家への正式な抗議文を出すべきです。エリナの名誉のためにも、ヴォルフォード家の立場のためにも」
「カトリーヌ」
父が静かに言った。
「それを決めるのは、エリナだ」
母がはっと口をつぐんだ。父の眼差しがエリナに向いた。穏やかで、急かすことのない目だった。
エリナはスプーンをゆっくりと皿に置いた。
「争うつもりはありません」
自分の声が、思ったより落ち着いているのが不思議だった。
「抗議文を出しても、取り戻せるものは何もない。婚約は終わりました。それは変えられない事実です」
「でもエリナ、あなたの名誉が——」
「お母様」
エリナは母を見た。
「私の名誉が傷ついたとしたら、それはクロード様の言葉のせいではなく、私が何も言い返せなかったからだと思います。でも今は……まだ、言い返す言葉が見つかりません」
母がまた泣きそうな顔になった。エリナは視線を食卓に戻した。
「ただ、一つだけ確かなことがあります」
言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「もう、この国で誰かの婚約者として生きることは、考えられません」
朝食が終わった後、父に書斎へ呼ばれた。
ヴォルフォード公爵の書斎は、邸の中で最も落ち着く場所だった。壁一面の本棚。年季の入った木の机。窓の外には手入れの行き届いた庭がある。エリナは幼い頃から、父に呼ばれるたびにこの椅子に座った。
父はしばらく庭を眺めてから、ゆっくりと口を開いた。
「エリナ、一つ話がある。昨夜の件より前から、考えていたことだ」
エリナは黙って続きを待った。
「隣国のランドール王国と、我が家は長年貿易上の繋がりがある。今月末、ランドールの宰相が視察の途中でこの邸に立ち寄る予定になっている」
「ランドールの宰相……アレク・ランドール閣下でしょうか」
「そうだ。北方に強い影響力を持つ優秀な男だ。その商談に、お前を同席させたいと思っていた。昨夜の話がなかったとしても、そのつもりでいた」
エリナは少し首を傾けた。
「私が同席することで、何か変わりますか」
「私が老いたということだ」
父は苦笑いをした。
「冗談ではなく、お前に経験を積ませたかった。そういう話だ」
エリナはしばらく考えた。昨夜のことが頭の中にまだある。広間の光、クロードの声、集まる視線。それでも——。
「わかりました。同席します」
父が頷いた。そして一つ間を置いてから、もう一度口を開いた。
「エリナ」
声の質が、少し変わった。
「お前は昨夜、泣かなかったか」
「……邸に戻ってから少し、目が熱くなりました。でも泣きませんでした」
「そうか」
父の声には、何かが混じっていた。悲しみとも、誇りとも取れるような。
「泣いてよかったんだぞ、と言いたいわけではない。ただ、お前が誰かのために感情を押し込めることに、もう慣れてしまっているのではないかと思った」
エリナは答えなかった。
父は続けた。
「婚約がなくなったことを、少しでも楽になったと感じていたとしても、お前はお前を責めなくていい。それは正直な気持ちだ」
窓の外で、鳥が鳴いた。
エリナはゆっくりと息を吐いた。
「……少しだけ、そう感じました」
「だろうと思った」
父は立ち上がり、エリナの頭にそっと手を乗せた。子どものころから変わらない仕草だった。
「お前の人生だ。誰かのためではなく、お前のために生きる権利が、お前にはある」
その日の午後、エリナは自室で窓の外を見ていた。
庭では使用人が花の手入れをしていた。何気ない日常の光景。昨日まで、エリナにとってここはただの実家だった。数年後には王宮へ移るはずの、仮の住まい。
今はちがう。
ここが、しばらくの間、自分の場所になる。
それがいいことなのか悪いことなのか、まだわからなかった。ただ、朝から何かがゆっくりと変わり始めている感じがした。積み上げたものが崩れた後の、静かな更地のような感覚。
怖くもあった。
でも、すこし——本当にすこしだけ——風が通るような気もした。
エリナは窓を開けた。
春の空気が部屋に入ってきた。




