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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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第39話

 婚礼は、初夏の晴れた日に行われた。


 ランドール王国の慣わしでは、婚礼は午前中に執り行われる。朝の光の中で誓いを立てるのがよいとされているからだ。宰相邸の大広間に、国内外から招かれた客が集まった。規模としては大きかったが、飾り立てすぎない、ランドールらしい式だった。白い花が柱に巻かれ、窓から差し込む光が石畳に落ちていた。


 エリナの両親も来ていた。


 父ハーヴェイは朝から背筋を伸ばして、誇らしそうな顔をしていた。母カトリーヌは控え室でエリナの支度を手伝いながら、すでに目を赤くしていた。


「お母様、まだ始まってもいませんよ」


「わかってるわよ。でも止まらないの」


 エリナは苦笑しながら、母の手を少し握った。


「行ってきます」


「……行ってらっしゃい」


 カトリーヌが震える声で言った。



 大広間への扉が開いたとき、エリナは一度だけ深く息を吸った。


 正面にアレクが立っていた。


 濃い藍色の礼装。いつもより少し改まった装い。背筋がいつも通り伸びていて、表情はいつも通り静かで。でも今日は、どこかいつもと違った。


 エリナが歩いていくと、アレクの目がまっすぐこちらに向いた。


 それだけで、緊張が半分消えた。


 アレクの隣に並んで立った。


 式が始まった。



 ランドールの婚礼の儀式は、長くない。


 主礼官が聖典の一節を読み上げ、二人がそれぞれ誓いの言葉を述べ、指輪を交わす。それだけだった。飾りが少ない分、言葉の重みだけが残った。


 主礼官がアレクに誓いの言葉を求めた。


 アレクが口を開いた。


 誓いの文言は決まっている。それを読み上げるだけでいい。でもエリナは、隣に立ちながら、アレクの手に気づいた。


 わずかに、震えていた。


 ほんのわずかだった。傍目にはわからないかもしれない。でもエリナには見えた。この一年、この人のことをずっと見てきたから。感情を抑えることに慣れているこの人が、今日だけは完全には抑えられなかった。


 それを知ったとき、エリナの胸の奥が温かくなった。


 アレクが誓いの言葉を読み終えた。


 次はエリナの番だった。


 エリナも誓いの言葉を述べた。声は思ったより落ち着いていた。言葉の意味を、一言ずつ確かめるように言った。


 指輪を交わした。


 母が泣く声が、どこかから聞こえた。フィンが「閣下おめでとうございます」と式の最中に小声で言い、隣の誰かに「今は黙れ」と小声でたしなめられていた。


 式が終わった。


 客席から拍手が来た。



 披露の宴が終わり、客が帰り、邸が静かになったのは夜の初めころだった。


 エリナとアレクが二人きりになったのは、その後だった。


 大広間の窓を開けると、初夏の夜風が入ってきた。花の香りがした。飾りに使った白い花が、まだ柱に残っていた。


 エリナはその花を見ながら、今日一日を頭の中で振り返った。


 長かった。でも不思議と疲れていなかった。むしろ、どこか満たされていた。


「緊張していたんですか」


 エリナはアレクに向かって聞いた。


 アレクが少し間を置いた。


「……ああ」


 正直に認めた。


 エリナは少し驚いた。否定するかと思っていた。でもこの人は、今日から嘘をつかない、と決めたのかもしれない。


「手が震えていました」


「見えたか」


「私だけに見えました」


 アレクが小さく息を吐いた。


「みっともない」


「そんなことありません」


 エリナは言った。


「震えているのを見て、嬉しかったです」


 アレクが顔を上げた。


「あなたが緊張するくらい、今日が大切だったということだから」


 アレクはしばらくエリナを見ていた。


 それから、何かが崩れるように、表情が緩んだ。


 笑った。


 声に出してではなく、口元が、目元が、はっきりと笑った。エリナがランドールに来てから、こんな顔を見たのは初めてだった。


 つられてエリナも笑った。


 笑い声が大広間に響いた。


 アレクの笑い声と、エリナの笑い声が混ざり合った。


 邸中に届くような声ではなかった。でも二人には聞こえた。この邸に、こういう夜が来た。それだけで十分だった。


 笑いが収まった後、アレクが言った。


「よろしく頼む」


 短い言葉だったが、中身は長かった。


「はい」


 エリナは答えた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 窓の外で、夏の星が出ていた。



 翌朝、エリナが廊下を歩いていると、フィンが笑顔で近づいてきた。


「エリナ様、いや、奥様。昨日は本当におめでとうございました」


「ありがとうございます。フィンさんも、式の途中で余計なことを言わないでほしかったですが」


「閣下に怒られましたが、後悔はしていません」


 フィンが胸を張った。


「閣下が笑ったのを見ましたよ。式の後、大広間で。あんな顔、初めて見ました」


「そうですか」


「ええ。本当に、初めて」


 フィンの声が、少しだけ湿った。


「ジュリア様が亡くなってから、閣下があんな顔をするのを見たことがなかったので。私もずっと、待っていたんだと思います。エリナ様が来てくれてよかった」


 エリナはフィンを見た。


 この人はずっと、アレクの隣で待っていた。笑わなくなった人が、いつかまた笑うのを。そっと見ながら、支えながら。


「フィンさんがいてくれたから、アレク様も今日まで来られたんだと思います」


「私は何もしていませんよ」


「いてくれました」


 フィンがまた少し目を赤くしかけた。


「それ、閣下に言ったのと同じ言葉ですね」


「同じことだから」


 エリナは笑った。


 フィンも笑った。


 廊下に朝の光が差し込んでいた。


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