第40話
婚礼から一ヶ月が経った。
宰相邸の朝は、いつも通りだった。
夜明けとともに厨房が動き始める音がする。庭師のエドガーが外を歩く足音がする。廊下を侍女のアンナが通る気配がする。そういった音と気配の中で、エリナは目を覚ました。
宰相夫人になってから、暮らしが急に変わったわけではなかった。執務室での仕事は続いている。アレクとフィンと三人で書類に向かうのも同じだ。マルタが朝の支度を手伝ってくれるのも同じ。ただ、今は「帰る部屋」ではなく「帰る邸」がある、という感覚が、どこかより確かになった気がした。
身支度をして階下に降りると、アレクがすでに食堂にいた。
「おはようございます」
「ああ」
いつも通りの朝だった。
午前の執務が終わったころ、郵便が届いた。
フィンが持ってきた束の中に、ヴァロアからの封書があった。差出人の名前を見て、エリナは少し目を止めた。
クロード・レイン。
以前は封を開けるのを躊躇した名前だった。今日は自然に封を切った。
手紙は短かった。クロードらしく、几帳面な字で書かれていた。
「エリナへ。婚礼のお祝いを伝えるのが遅くなって申し訳ない。母のことで色々あって、バタバタしていた。今は少し落ち着いた。リリアとも、ようやく二人でちゃんと話せるようになってきた。あの子は思ったより強い。宮廷のことも、少しずつ覚えてきた。私もやっと、自分で考えることができるようになってきた気がする。エリナのおかげで、リリアも助かっている。ありがとう。どうかお幸せに。クロード」
エリナはその手紙を、二度読んだ。
やっと、自分で考えることができるようになってきた。
その一文が、胸に残った。遅かったかもしれない。でも今からでいい。あの人はこれから、自分の足で立っていく。
「何か面白いことでも書いてあったか」
後ろから声がした。
エリナは振り返った。アレクが書類を手に持ったまま、少し離れたところに立っていた。いつの間に来ていたのか。
「面白い、とは少し違いますが」
エリナは言った。
「クロード様からです。婚礼のお祝いと、近況報告と」
「そうか」
「リリア様も少しずつ宮廷に慣れてきたそうで。クロード様も、自分で考えられるようになってきたと」
アレクが短く頷いた。
エリナは手紙を折りたたみ、机の引き出しに入れた。
捨てなかった。でも目の届く場所に置く必要もなかった。これはこれで、一つの区切りだ。
「みんな、ちゃんと前を向いています」
エリナはアレクに向かって言った。
「ヴァロアも。クロード様も。リリア様も」
アレクがエリナのそばに来た。後ろからそっと、肩に手を置いた。
「お前は」
「私も」
エリナは答えた。
「私も、ちゃんと前を向いています」
窓の外に、初夏の庭が見えた。並木の緑が風に揺れていた。噴水の水が光を弾いていた。エリナが初めてこの庭に来た日、枯れていた木が、今は青々と葉を広げている。
あれから一年が経った。
あの舞踏会の夜から始まった話が、今日ここに来た。婚約破棄された夜、自室で一人考えた夜、ランドールへ向かう馬車の中の朝、執務室で最初に書類を並べた日、農村の老婆たちに囲まれた市場、深夜に聞いたアレクの声、庭の肖像画への小さな礼、春の夜の星空。
全部が、ここに続いていた。
エリナは窓の外を見ながら、静かに息を吐いた。
誰かのためではなく、自分のために選んだ場所がある。自分のために仕事をしている。自分のために愛している人がいる。
それが今の自分の全部だった。
「今日の午後の予定は」
アレクが言った。
「北部農村からの陳情書が届いています。目を通した後、返答案を作ろうと思っています」
「私も見る」
「はい」
エリナはアレクを見上げた。肩の上の手が、まだそこにあった。
「では、始めましょうか」
アレクが頷いた。
二人は並んで机に向かった。
窓の外では風が吹き、緑の葉が揺れていた。
ランドールの午後が、静かに続いていった。
夕方、仕事が一段落してエリナが窓の外を見ていると、マルタが茶を持ってきた。
「お疲れ様です」
「ありがとうございます、マルタさん」
マルタがいつも通り、丁寧に茶器を置いた。それから少し間を置いて言った。
「奥様、ここに来られてから一年ですね」
「そうですね。もうそんなに」
「最初にいらっしゃったとき、私はずいぶんよそよそしくしてしまいました」
「いいえ、当然のことでした」
「でもあなたは、使用人全員の名前を覚えてくださった。それが嬉しかったんです」
マルタが静かに言った。
「ジュリア様も、そういう方でした。誰のことも、ちゃんと見ていた」
エリナは少し目を細めた。
「マルタさんは、ジュリア様のことが大好きだったんですね」
「はい。今でも」
「それでいいと思います」
マルタがエリナを見た。
「ジュリア様は、あの方なりにここにいる。あなたはあなたなりに、ここにいる。どちらかが消えるわけじゃない」
マルタが、初めてエリナの前で目を潤ませた。
「……ありがとうございます、奥様」
「こちらこそ」
エリナは言った。
「これからもよろしくお願いします、マルタさん」
マルタが深く頭を下げた。
窓の外に、夕暮れが来ていた。ランドールの空が橙色に染まっていた。




