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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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38/40

第38話

 翌日は、普通の一日だった。


 執務室で書類を処理し、午後は地方代官との面談があり、夕方に短い会議があった。アレクとエリナは並んで仕事をした。昨夜の庭での話は、二人の間で特に触れられなかった。触れない方がいいと、エリナは思っていた。昨夜アレクが話してくれたことは、まだ消化の途中にある。それを急かすことは、この人には逆効果だ。


 ただ、何かが変わっていた。


 アレクがエリナを見る頻度が、少し増えていた。何かを言おうとして止まる、という瞬間が何度かあった。エリナはそれに気づいても、顔に出さなかった。


 夕食もいつも通りだった。フィンが今日見た珍しい馬の話をした。アレクが「うるさい」と言った。エリナが笑った。


 夜になって、フィンが「おやすみなさい」と早々に引き上げた。



 エリナが自室に戻ろうとしたとき、廊下でアレクが呼び止めた。


「少し、いいか」


 振り返ると、アレクが立っていた。廊下の灯りの中で、少し緊張した顔をしていた。


「はい」


 エリナは立ち止まった。


 アレクがゆっくりと近づいてきた。何かを言おうとして、目を外した。また戻した。


 珍しいことだと思った。この人がこれほど言葉を探している顔を見たことがなかった。


「昨夜話したことを、考えていた」


「はい」


「ジュリアへの裏切りになるのではないかと、怖かった、と言った」


「覚えています」


「……その怖さが、間違いだったのかもしれない」


 エリナは静かに聞いた。


「間違い、というより」


 アレクが言い直した。


「怖がる必要がなかったのかもしれない。お前が言ったことが正しかった。どちらかを選ばなくていい、と」


 エリナの胸の中で、何かが静かに動いた。


「昨夜のうちに、少し考えた。ジュリアへの気持ちが薄れたかというと、そうではない。今でも大切な記憶だ。でもあなたへの気持ちが育ったことで、ジュリアへの記憶が傷ついたかというと——そうでもない」


 アレクが初めてまっすぐエリナを見た。


「むしろ、あなたがいてくれたから、ジュリアのことを話せた。昨夜も。あの深夜の執務室の夜も。あなたがいなければ、あの話は誰にも言えないままだったと思う」


 エリナは、涙が出そうになるのをこらえた。


 アレクがゆっくりと手を伸ばした。エリナの手を、両手で包んだ。


 温かかった。大きかった。


「エリナ」


 アレクが言った。名前を呼ぶ声が、いつもと違った。仕事の場でも、日常の呼びかけでもない。ただ、エリナに向けた声だった。


「愛している」


 言葉が、廊下の静けさの中に落ちた。


 エリナは目を閉じた。


 閉じたら涙が出た。一粒だけ、頬を伝った。


 こんなに早く泣くつもりはなかった。でも止められなかった。


「私も」


 声が少し震えた。


「私も、愛しています」


 アレクの手が、少し強く握った。


 エリナは顔を上げた。目が濡れていた。アレクがそれを見て、少し困ったような顔をした。この人が困ったような顔をするのを見たのは、初めてだったかもしれない。


「泣くほどのことを言ったか」


「言いました」


「そうか」


 アレクが短く言った。それから、エリナの手をまだ離さないまま、少しだけ目を細めた。笑っているのか、いないのか、よくわからない顔だった。でもエリナには、笑っているように見えた。


「ありがとうございます」


 エリナは言った。


「なぜ礼を言う」


「言いたくなったから」


 アレクがまた少し困ったような顔をした。でも手は離さなかった。


 廊下の灯りが、静かに揺れていた。


 邸の外では春の虫が鳴いていた。一年前には知らなかったランドールの春が、今夜ここにあった。


 エリナはその手の中に、しばらくいた。


 ここが自分の場所だと、今この瞬間ほどはっきりわかったことは、これまでになかった。



 翌朝、エリナが執務室に入ると、アレクがすでに机についていた。


 いつも通りだった。書類を広げ、ペンを持ち、集中している。エリナが入ってきても、短く顔を上げて頷いただけだった。


 エリナも自分の机に向かった。


 昨夜のことは、今日の仕事の邪魔にならなかった。むしろ、不思議と落ち着いていた。言葉にして伝えて、伝えてもらった。それで十分だった。何かが急に変わるわけではない。ただ、この場所にいる理由が、また一つ深くなった気がした。


 午前中の仕事が一段落したとき、フィンが執務室に顔を出した。


「おはようございます。……あれ」


 フィンが部屋の空気を嗅ぐように、二人を見回した。


「何かありましたか」


「何もない」


 アレクが即座に言った。


「でも、なんかいつもと違う気がして」


「うるさい」


「エリナ様、何かありましたか」


「何もありませんよ」


 エリナは穏やかに答えた。


 フィンがしばらく二人を見比べた。それから、にやりと笑った。


「わかりました。何もなかったんですね」


「そうです」


「はい。では書類を持ってきます」


 フィンが部屋を出た。


 アレクがエリナを横目で見た。エリナもアレクを見た。


 二人とも、何も言わなかった。


 でも、珍しいことに、アレクの口元がわずかに動いた気がした。


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