第38話
翌日は、普通の一日だった。
執務室で書類を処理し、午後は地方代官との面談があり、夕方に短い会議があった。アレクとエリナは並んで仕事をした。昨夜の庭での話は、二人の間で特に触れられなかった。触れない方がいいと、エリナは思っていた。昨夜アレクが話してくれたことは、まだ消化の途中にある。それを急かすことは、この人には逆効果だ。
ただ、何かが変わっていた。
アレクがエリナを見る頻度が、少し増えていた。何かを言おうとして止まる、という瞬間が何度かあった。エリナはそれに気づいても、顔に出さなかった。
夕食もいつも通りだった。フィンが今日見た珍しい馬の話をした。アレクが「うるさい」と言った。エリナが笑った。
夜になって、フィンが「おやすみなさい」と早々に引き上げた。
エリナが自室に戻ろうとしたとき、廊下でアレクが呼び止めた。
「少し、いいか」
振り返ると、アレクが立っていた。廊下の灯りの中で、少し緊張した顔をしていた。
「はい」
エリナは立ち止まった。
アレクがゆっくりと近づいてきた。何かを言おうとして、目を外した。また戻した。
珍しいことだと思った。この人がこれほど言葉を探している顔を見たことがなかった。
「昨夜話したことを、考えていた」
「はい」
「ジュリアへの裏切りになるのではないかと、怖かった、と言った」
「覚えています」
「……その怖さが、間違いだったのかもしれない」
エリナは静かに聞いた。
「間違い、というより」
アレクが言い直した。
「怖がる必要がなかったのかもしれない。お前が言ったことが正しかった。どちらかを選ばなくていい、と」
エリナの胸の中で、何かが静かに動いた。
「昨夜のうちに、少し考えた。ジュリアへの気持ちが薄れたかというと、そうではない。今でも大切な記憶だ。でもあなたへの気持ちが育ったことで、ジュリアへの記憶が傷ついたかというと——そうでもない」
アレクが初めてまっすぐエリナを見た。
「むしろ、あなたがいてくれたから、ジュリアのことを話せた。昨夜も。あの深夜の執務室の夜も。あなたがいなければ、あの話は誰にも言えないままだったと思う」
エリナは、涙が出そうになるのをこらえた。
アレクがゆっくりと手を伸ばした。エリナの手を、両手で包んだ。
温かかった。大きかった。
「エリナ」
アレクが言った。名前を呼ぶ声が、いつもと違った。仕事の場でも、日常の呼びかけでもない。ただ、エリナに向けた声だった。
「愛している」
言葉が、廊下の静けさの中に落ちた。
エリナは目を閉じた。
閉じたら涙が出た。一粒だけ、頬を伝った。
こんなに早く泣くつもりはなかった。でも止められなかった。
「私も」
声が少し震えた。
「私も、愛しています」
アレクの手が、少し強く握った。
エリナは顔を上げた。目が濡れていた。アレクがそれを見て、少し困ったような顔をした。この人が困ったような顔をするのを見たのは、初めてだったかもしれない。
「泣くほどのことを言ったか」
「言いました」
「そうか」
アレクが短く言った。それから、エリナの手をまだ離さないまま、少しだけ目を細めた。笑っているのか、いないのか、よくわからない顔だった。でもエリナには、笑っているように見えた。
「ありがとうございます」
エリナは言った。
「なぜ礼を言う」
「言いたくなったから」
アレクがまた少し困ったような顔をした。でも手は離さなかった。
廊下の灯りが、静かに揺れていた。
邸の外では春の虫が鳴いていた。一年前には知らなかったランドールの春が、今夜ここにあった。
エリナはその手の中に、しばらくいた。
ここが自分の場所だと、今この瞬間ほどはっきりわかったことは、これまでになかった。
翌朝、エリナが執務室に入ると、アレクがすでに机についていた。
いつも通りだった。書類を広げ、ペンを持ち、集中している。エリナが入ってきても、短く顔を上げて頷いただけだった。
エリナも自分の机に向かった。
昨夜のことは、今日の仕事の邪魔にならなかった。むしろ、不思議と落ち着いていた。言葉にして伝えて、伝えてもらった。それで十分だった。何かが急に変わるわけではない。ただ、この場所にいる理由が、また一つ深くなった気がした。
午前中の仕事が一段落したとき、フィンが執務室に顔を出した。
「おはようございます。……あれ」
フィンが部屋の空気を嗅ぐように、二人を見回した。
「何かありましたか」
「何もない」
アレクが即座に言った。
「でも、なんかいつもと違う気がして」
「うるさい」
「エリナ様、何かありましたか」
「何もありませんよ」
エリナは穏やかに答えた。
フィンがしばらく二人を見比べた。それから、にやりと笑った。
「わかりました。何もなかったんですね」
「そうです」
「はい。では書類を持ってきます」
フィンが部屋を出た。
アレクがエリナを横目で見た。エリナもアレクを見た。
二人とも、何も言わなかった。
でも、珍しいことに、アレクの口元がわずかに動いた気がした。




