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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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第37話

 春になった。


 庭の並木に葉が戻り、噴水が再び動き始めた。エリナがランドールに来てから、もうすぐ一年になろうとしていた。一年前のこの季節、宰相邸の門をくぐったときのことを思い返すと、遠い昔のような気がした。


 あの日から、多くのことがあった。


 ソフィア王妃の件も、一応の決着を見た。ヴァロアからの外交的な課題はまだ残っているが、緊急の対応が必要な段階は過ぎた。執務室の書類の山も、少し落ち着いていた。


 そういう夜だった。



 夕食の後、エリナはひとりで庭に出た。


 春の夜の空気は柔らかく、草の匂いがした。噴水の音が静かに響いていた。空には星が出ていた。エリナはベンチには座らず、石畳の上に立ったまま上を向いた。


 ランドールの星は多い。王都のはずれにこの邸があるせいか、ヴァロアの宮廷近くより空が暗くて、星が見えやすい。それにも、一年かけて慣れた。


 足音がした。


 振り返ると、アレクが来ていた。


 いつもは夜に庭へ出ることのない人だった。手に何も持っていなかった。酒もない。外套だけを羽織って、ゆっくりと歩いてきた。


 エリナの隣に並んで立ち、同じように空を見た。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


「ジュリアのことを、話してもいいか」


 アレクが言った。


 エリナは空から目を下ろして、アレクを見た。


「はい」


 短く答えた。


 アレクはまた空を見た。話し始める前に、一度深く息を吸った。



「ジュリアが亡くなってから、しばらくの間、何も感じられなかった」


 静かな声だった。


「仕事はした。書類も読んだ。会議にも出た。でも何かを感じているという感覚がなかった。悲しいとも、寂しいとも、怒りとも、違う。ただ、何もない」


 エリナは黙って聞いた。


「邸に人を入れなかったのは、そういうときに誰かがいると、何かを感じるふりをしなければならない気がしたからだ。でも感じるふりができなかった。だから一人でいた」


「フィンさんも」


「フィンも。あいつが心配していることはわかっていた。でもどうにもできなかった」


 アレクが少し間を置いた。


「そのまま、ずっとそうかと思っていた。感じないまま生きていくのかと。それでもいいと思っていた。仕事はできるから」


 空で、雲が流れた。星が一つ隠れて、また現れた。


「エリナが来た」


 アレクが言った。


「最初は、補佐として使える人間が来た、それだけだった。でもだんだん、違うものが戻ってきた。朝、執務室に明かりがつく。足音がする。声がする。食卓に誰かいる」


 声が、低くなった。


「小さなことだ。でも一つひとつが、少しずつ『今日』を取り戻させた。気づいたら、また感じられるようになっていた。腹も立つし、驚きもする。笑いたい気持ちになることもある」


 エリナは胸が締まるような感覚を覚えた。


「それがあなたのせいだと気づいたとき、怖かった」


「怖かった?」


「ジュリアへの裏切りになるのではないかと思った」


 アレクが初めてエリナを見た。


「ジュリアを忘れていくのではないかと。あなたへの気持ちが大きくなれば、ジュリアへの気持ちが薄れるのではないかと。そういうことが、ずっと怖かった」


 エリナは静かにアレクを見返した。


 この告白がどれほどのことかを、理解していた。感情を言葉にすることが苦手なこの人が、こうして話している。どれだけ考えて、どれだけ迷って、今夜ここに来たのか。


「怖かった、というのが今も続いていますか」


 エリナは静かに聞いた。


「……今も、ある」


 アレクが正直に答えた。


「そうですか」


 エリナは空を見た。星が静かにそこにあった。


「教えてくれてありがとうございます」


 アレクが少し動いた。エリナの言葉を、受け取っているようだった。


「答えは、明日でも来週でも、いつでも」


 エリナはアレクに向かって言った。


「私はここにいます」


 アレクは何も言わなかった。


 ただ、エリナの隣に立っていた。春の夜風が二人の間を吹き抜けた。


 噴水の音が、静かに続いていた。



 どのくらい経ったろう。


 アレクが、ぽつりと言った。


「ジュリアは、こういう夜が好きだった」


 エリナは何も言わなかった。


「星を見るのが好きで、晴れた夜は必ず窓を開けていた。庭に出ることもあった。私はついていくことが多かった。話すわけでもなく、ただ並んで立っていた」


 星が、また一つ雲の奥に消えた。


「今夜、お前が庭にいるのを見て、なぜか外に出たくなった」


「そうですか」


「自分でも、なぜかわからない」


 エリナは少しだけ微笑んだ。


 アレクにはわからないかもしれない。でもエリナにはわかった気がした。この人の中にある何かが、今夜この庭へ足を向けた。それが何なのかは、急いで言葉にしなくていい。


「来てくれて、よかったです」


 エリナは言った。


 アレクが少しの間、エリナを見た。


 それから空に目を戻した。


 二人でしばらく、同じ星を見ていた。


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