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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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第33話

 ランドールへの帰路は、来たときと同じ街道を戻った。


 ヴァロアを出て半日も走ると、景色が変わってきた。丘が低くなり、空が広くなる。エリナはその変化を窓から見ながら、ああ、ランドールに近づいている、と思った。来たときは気づかなかった変化を、今日は感じた。


 馬車には三人乗っていた。アレク、エリナ、フィン。


 フィンは昨日の後片付けと調停後の文書整理で夜も働いており、乗り込んですぐに「少し眠ります」と言って目を閉じた。実際、すぐに寝息が聞こえてきた。


 アレクは書類を広げていた。帰りの馬車でも仕事をする人だった。


 エリナも資料を確認しようとしたが、十二日間の疲れがじわりと出てきた。目が滑って、文字が頭に入らなかった。窓の外の景色を眺めているうちに、だんだん瞼が重くなった。


 いけない、と思ったがそれが最後だった。



 次に気づいたとき、馬車がまだ走っていた。


 外の光が変わっていた。傾いている。かなりの時間が経ったらしい。


 そして、何かに寄りかかっていた。


 エリナはそれが何かを認識するのに、数秒かかった。


 アレクの肩だった。


 エリナは体を起こそうとした。すっかり寄りかかってしまっていた。失礼なことをした、と思って慌てて離れようとすると、アレクの低い声が聞こえた。


「いい」


 それだけだった。


 エリナは動きを止めた。


 アレクは書類を持ったまま、正面を向いていた。エリナが寄りかかっていることを、なんでもないことのように受け流していた。


 エリナは少し迷ってから、またゆっくりと肩に寄りかかった。起きているのに寄りかかるのは、眠っているときとは少し違う恥ずかしさがあった。でも、アレクが「いい」と言ったから。


 向かいの席でフィンがまだ目を閉じていた。でもその口元が、わずかに緩んでいた。眠っていないかもしれない。



 しばらく、静かな時間が続いた。


 馬車が揺れるたびに、アレクの肩の感触が伝わってきた。温かかった。硬い、とも、柔らかい、とも少し違う。ただそこにある、という安定感だった。


 窓の外を木立が流れていった。空が少し赤みを帯びてきた。


 アレクが口を開いた。


 書類から目を上げず、窓の外でもなく、どこか遠くを見ているような声だった。


「あなたといると、静かな気持ちになる」


 エリナは少し息が止まった。


 静かな気持ち。


 その言葉を、胸の中でゆっくりと受け取った。アレクがこういうことを言うのは珍しかった。感情を言葉にすることを、この人はずっと苦手にしてきた。それがこぼれ出た。独り言のような、でも確かにエリナに向けられた言葉だった。


「私もです」


 エリナは静かに答えた。


 胸が熱かった。顔が少し赤くなっているかもしれなかった。でも今は、アレクから顔が見えない位置にいる。それがちょうどよかった。


 アレクは何も言わなかった。


 でも書類を持つ手が、少しだけ緩んだような気がした。


 フィンが向かいの席でまだ目を閉じていた。その肩が、かすかに揺れていた。笑いを堪えているのかもしれない。


 エリナはそれに気づいて、内心で苦笑した。でも何も言わなかった。言う必要がなかった。


 馬車は走り続けた。夕暮れの街道を、ランドールへ向かって。


 アレクの肩に寄りかかったまま、エリナはもう一度窓の外を見た。


 空が茜色に染まっていた。遠くに見える山の稜線が、ランドール王国のものだとわかった。


 帰る、という言葉が、今日は特別に温かかった。



 宿に着いてから、フィンが馬車を降りる際にこそっとエリナに耳打ちした。


「眠っていませんでしたが、何も見ていませんでした」


「そうですか」


「はい。完全に」


「ありがとうございます」


 フィンが満足そうな顔で先に歩いていった。


 アレクが後ろから「何を話していた」と聞いた。


「何でもありません」とエリナは答えた。


 アレクは一瞬エリナを見て、それからフィンを見て、何も言わなかった。それでわかったのかもしれない。


 三人で宿に入った。


 今夜は、よく眠れそうだと思った。



 翌朝、最後の街道を走りきって、ランドールの王都の城門をくぐった。


 門番が敬礼した。見慣れた石畳が続いた。宰相邸の並木が見えてきた。


 エリナは窓から外を眺めた。ここに来たのは一年足らず前だ。あのときは全部が見知らぬ景色だった。今は、一つひとつが知っている場所だ。あの角の菓子屋。坂の途中の古い教会。邸の前の石畳の凹み。どれも、自分の場所の記憶だった。


 門が開いた。馬車が邸に入った。


 マルタが玄関に立っていた。


 それを見た瞬間、エリナは自分が本当に帰ってきたと思った。


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