第34話
ランドールの王都に戻ったのは、出発から五日後のことだった。
宰相邸の門をくぐると、マルタが玄関に出て迎えてくれた。エリナを見て、短く「おかえりなさいませ」と言った。その言葉が、不思議なほど胸に沁みた。
「ただいま戻りました、マルタさん」
「お疲れのようです。夕食の後、すぐお休みになれるようにしておきます」
「ありがとうございます」
自室に入って、窓を開けた。ランドールの空気だった。乾いていて、少し冷たい。ヴァロアの空気とは違う。これが自分の場所の空気だ、とまた思った。
問題が待っていたのは、翌朝だった。
フィンが険しい顔で執務室に入ってきた。
「閣下、エリナ様、報告があります」
アレクがペンを置いた。エリナも顔を上げた。
「ランドール不在中に、各国の貴族や使節のもとへ、ある話が流れていたようです」
フィンが続けた。
「エリナ様が今回の調停で、ランドールに有利な条件を引き出すために交渉を不当に誘導した、という内容です。私利私欲のための動きだったと。発信源は……ヴァロアの王宮に近い筋からとのことです」
エリナは静かに聞いた。
ソフィア王妃、と思った。王宮に戻ってから、あの人は動いた。エリナに直接手が届かなければ、エリナの評判を傷つける方向に動く。そういうやり方をする人だと、最初から予測できた。
「どの程度広まっていますか」
「北方の三カ国と、東側の二カ国の使節には確実に届いていると見られます。それ以上は現在調査中です」
アレクが立ち上がった。
「対応策を考える。まず情報の伝わり方の全容を把握する必要がある。フィン、——」
「少し、よろしいですか」
エリナが口を開いた。
アレクが振り返った。
「私が直接説明します」
「どういうことだ」
「各国の使節に向けて、調停の経緯を正式に説明する文書を出します。私が書きます。私の名前で出します」
アレクの目が少し細くなった。
「あなたを矢面に立たせるつもりはない」
静かだが、はっきりした言葉だった。
エリナはアレクを見た。この人が「あなたを守る」という気持ちから言っていることはわかった。そしてそれがありがたいことも。
「私の名誉は、私が守ります」
エリナははっきりと言った。
「王妃ソフィア様は私を標的にしました。だとすれば、私が正面から答えることが最も効果的です。アレク様が代わりに動いても、エリナ本人は何も言えなかったのかと思われる可能性がある」
「……」
「それに」
エリナは少し声のトーンを落とした。
「私の名前が調停文書に記録されました。それは私が当事者だということです。当事者が自分の言葉で説明することに、意義があると思います」
アレクは黙っていた。反論を探しているようだった。でも言葉が出てこないようだった。
「ただ」
エリナが続けた。
「隣にいてください」
アレクが顔を上げた。
「私が書いて、私が説明する。でも一人でやるつもりはありません。あなたと一緒に、ランドールの立場として動きたい」
しばらく沈黙があった。
フィンが壁際で息を潜めていた。
「……わかった」
アレクが言った。
「書いてくれ。出す前に私が確認する」
「はい」
エリナは頷いた。
「それと」
アレクがもう一度口を開いた。
「隣にいる」
短く、静かに言った。
それだけだった。でもエリナには十分だった。胸の奥が、じわりと温かくなった。
エリナは机に向かい、紙を引き寄せた。
書くべきことは、頭の中にすでにあった。感情ではなく事実だけを。調停の経緯を、誰が読んでも理解できる形で。
ペンを取った。
アレクが隣の椅子を引いて座った。
二人並んで、机に向かった。
その夜、エリナは書簡の下書きを三枚書いた。
最初の二枚は納得できなかった。感情が入りすぎていた。三枚目を書きながら、自分に言い聞かせた。感情と言葉は分けて使うことができる。それは王妃ソフィアの密使と向き合ったあの日に学んだことだ。
書き上げた下書きをアレクに渡した。アレクは黙って読んだ。
長い沈黙の後、アレクが言った。
「これでいい」
修正はなかった。
エリナは少し驚いて、それから静かに頷いた。アレクが手を加えなかったということは、この文書はエリナの言葉として出す意味があると判断したということだ。
「明日、清書して各国に出します」
「ああ」
アレクが答えた。
エリナは下書きを丁寧に折りたたんだ。
明日から、また始まる。でも今度は守るものがある。この邸が、この仕事が、この人が、隣にいる。それだけで、怖くなかった。




