第32話
ランドールへの出発は翌日の朝に決まっていた。
その前夜、エリナは宿の自室で荷物をまとめていた。持ってきたものを確認し、調停で使った資料を束ねた。十二日分の手帳を鞄に入れた。ヴァロアに来てから書き留めてきたものが、びっしり詰まっていた。
荷物を閉めると、外の音が静かだった。もう夜も深かった。
ノックがあった。
誰だろうと思いながら扉を開けると、クロードが立っていた。
護衛もなかった。一人で、外套を羽織っただけの姿だった。こんな時間に訪ねてくることは、礼儀の上では問題がある。でもクロードの顔を見て、エリナは何も言わずに部屋に入れた。
「明日、出発するんだな」
「はい、朝早くに」
「そうか」
クロードは部屋の中に入ったが、椅子には座らなかった。窓の外を見た。
「……ずっと、言えなかったことがある」
エリナは黙って待った。
「あなたを手放したことを、今でも後悔している」
静かな声だった。
エリナはその言葉を、胸の中で受け取った。怒りはなかった。驚きも、今さらなかった。ただ、クロードという人間が、それをずっと抱えていたのだということがわかった。
「今回の調停でのあなたを見て、余計に」
クロードが続けた。
「あなたがどれほどの人間かを、あの頃の私はわかっていなかった。隣に十年いたのに、ちゃんと見ていなかった。それが悔しいし、情けない」
エリナはしばらく何も言わなかった。
窓の外に、ヴァロアの夜が広がっていた。生まれ育った街の空気を、明日になれば置いていく。
「私は後悔していません」
エリナは静かに言った。
クロードが振り返った。
「あの夜があったから、私は自分の人生を生きられるようになったと思っています。婚約が続いていたら、私はずっと誰かの隣に立つための存在のままだったかもしれない」
クロードの顔が、わずかに歪んだ。傷ついている顔だった。
エリナはそれを見て、言葉を選んだ。責めるためでも、慰めるためでもなく、ただ本当のことを言うために。
「クロード様が私を手放したのは、あなたにとって正しい選択だったと思います。私への愛情がないまま婚約を続けることは、お互いのためにならなかった。だから後悔しなくていい」
「そんなふうに言えるのか」
「言えます。今は」
エリナは微笑んだ。
「あの夜は傷つきました。でも、その傷がなければ今日のここには来ていない。アレク様にも会っていない。ランドールという場所も知らなかった」
クロードは少しの間、エリナを見ていた。
何かを言おうとして、言葉が出ないようだった。目が赤くなっていた。
「……幸せになってくれ」
絞り出すように言った。
エリナは頷いた。
「ありがとうございます」
今度は、本当にそう思って言えた。
あの舞踏会の夜の翌朝、母の前でこの言葉を言えなかった自分が、ずっとどこかにいた。ありがとう、と言えるのはいつになるだろうと思っていた。でも今夜、この言葉が自然に出てきた。
クロードは小さく頷いて、部屋を出て行った。
扉が閉まる音がした。
エリナはしばらくその場に立っていた。
胸の中が、静かだった。
重いものが降りたのではなく、最初からそこになかったような感じがした。クロードへの恨みも、未練も、怒りも、とっくにどこかへいってしまっていた。
残っているのは、ただ一つ。
明日の朝、ランドールへ帰る。アレクと、フィンと、あの邸へ。
エリナは窓を少し開けた。
ヴァロアの夜の空気が入ってきた。冷たかった。でも悪くなかった。
これが最後かもしれないと思って、少しだけ吸い込んだ。
それから窓を閉めて、明かりを消した。
明日は早い。
翌朝の出発まで、エリナはよく眠れた。
夢は見なかった。ただ深く、静かに眠った。起きたとき、窓の外が白み始めていた。
身支度をして荷物を持って廊下に出ると、アレクがすでにいた。外套を着て、荷物を持っていた。フィンは少し後ろで眠そうな顔をしていた。
「おはようございます」
「ああ」
アレクが短く答えた。いつも通りの朝だった。
馬車が来て、三人が乗り込んだ。ヴァロアの街がゆっくりと後ろへ流れ始めた。エリナは窓から外を見た。朝の光の中で、石畳の通りが続いていた。見慣れた街が、また少し遠くなっていく。
今度は感傷がなかった。
ただ、ランドールへ帰る。それだけだった。
馬車が城門を出た。空が広くなった。
エリナは窓から目を離して、前を向いた。隣にアレクがいた。向かいでフィンが目を閉じていた。
これが、今の自分の場所だ。
そう思ったら、胸の中が静かだった。




