第31話
調停が成立したのは、ヴァロア入りから十二日目の午後だった。
最後の会議は長かった。朝から始まり、昼を挟んで夕方まで続いた。補償額の最終確認、段階的な領土の帰属移行の期間設定、共同管理となる水源の取り扱い。細かい文言の調整が何度も繰り返された。
エリナはアレクの隣で、終始書類と向き合っていた。
難しい局面が何度かあった。タル国の代表が補償の一部について最後まで難色を示した。「この数字では国内の説得がつかない」と繰り返し、議論が行き詰まった。エリナはそこで、双方が受け入れやすい形で補償の一部を複数年に分割する案を提示した。一括ではなく段階的に、というのはエリナが得意とする考え方だった。その案が場を動かし、タル国の代表が「それなら検討できる」と言った。
それからさらに二時間かけて文言を詰め、午後の遅い時間、ついに双方の代表が合意文書に署名した。
会議室に、静かな安堵が広がった。タル国の代表が「よい調停だった」と言い、ヴァロアの外務官が深く頭を下げた。アレクは無表情のまま握手を交わした。
エリナは少し離れた場所で、その光景を見ていた。
終わった、という感覚が、じわりと来た。胸の奥が、ゆっくりと緩んでいくのがわかった。
調停文書の最後のページに、ランドール代表団のメンバーとしてエリナの名前が記された。
アレク・ランドール宰相の補佐として、調停に貢献した者として。
フィンがこっそり「歴史に残りますよ」と言った。エリナは「大げさです」と答えたが、その紙を手に取ってもう一度確認した。確かに自分の名前があった。誰かのためではなく、自分の判断で動いた記録として、ここに残る。
それは、思ったより重かった。
宿への帰り道は、夕暮れの中を馬車で戻った。
フィンは先に別の馬車で戻り、いくつかの後処理を引き受けてくれていた。アレクとエリナは二人で同じ馬車に乗った。
馬車が動き出すと、しばらく沈黙が続いた。
エリナは少し疲れていた。十二日間、慣れない場所で、慣れない緊張感の中にいた。それが急に緩んだような感じがして、ぼんやりと窓の外を見ていた。
夕焼けがヴァロアの街並みを橙色に染めていた。
「お疲れ様でした」
エリナはアレクに向かって言った。
「お前こそ」
アレクが短く言った。
また静かになった。馬車が石畳の上を進む音が続いた。
しばらくして、馬車が路地に差し掛かった。通りに人が少なかった。アレクがふと、エリナの手を取った。
突然のことで、エリナは少し息を止めた。
アレクの手は大きく、少し冷たかった。しっかりと、でも強引ではなく、ただ包むように握っていた。
「よくやった」
低い声で言った。
エリナはその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。
この言葉は何度か聞いた。執務室で書類の誤りを見つけたとき。ガルタの使者に対応したとき。ソフィア王妃の面会から帰ったとき。そのたびに短く、感情のない声で言った。
でも今日のそれは、違った。
声に何かが滲んでいた。言葉の形は同じでも、中身が違った。十二日間を一緒に過ごして、ここまで来たことへの言葉だった。
エリナはアレクの手を握り返した。
少しだけ、強く。
アレクが手を離さなかった。
エリナも離さなかった。
馬車は夕暮れの街を進み続けた。窓の外のヴァロアが、ゆっくりと後ろへ流れていった。この街で過ごした日々も、この手の中に収まっているような気がした。過去も、今日も、これから帰るランドールも、全部がこの感触の中にある。
エリナは窓から目を離して、正面を向いた。
アレクも前を向いていた。二人とも何も言わなかった。
でも、手は繋いだままだった。
それだけで、十分だった。
宿に着いて馬車を降りるとき、ようやく手が離れた。フィンが玄関で待っていて、二人の顔を見比べてから、にやりとした。
「お疲れ様でした。うまくいったようで何よりです」
アレクが「うるさい」と言った。
「まだ何も言っていないですよ」
「言おうとしていた」
「さすがですね閣下、先読みが」
エリナはその横でひっそりと笑った。
いつものやりとりだった。ヴァロアでも、ランドールでも、変わらないこのやりとりが、今夜はひどく温かかった。




