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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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第28話

 王妃ソフィアから面会の申し込みが来たのは、調停会議の三日目が終わった夜だった。


 使いの者が宿まで来て、「明日の午前中に、王妃陛下が個別にお話ししたいとのことです」と伝えた。形式的には丁寧な申し出だったが、断りにくい形で来ていた。


 エリナは使いの者に「承知しました、参ります」と答えた。


 部屋に戻ってからアレクに告げると、アレクの目が少し細くなった。


「何を言われると思う」


「いくつか可能性があります。調停への干渉か、私個人への懐柔か」


「どちらにしても、応じる必要はない」


「わかっています」


 エリナは静かに言った。


「でも、何を言ってくるのかを知ることに意味があります。あの方の意図がわかれば、今後の交渉の動きも読めます」


 アレクはしばらくエリナを見ていた。


「気をつけろ」


「はい」


 それだけだったが、その言葉の重さはわかった。



 翌朝、エリナは一人で王宮へ向かった。


 ソフィア王妃の私室に近い応接間に通された。調度品は豪奢だった。窓には厚いカーテン。テーブルには花が飾られていた。エリナが子どものころから何度も訪れた場所だったが、今日は初めて来たように感じた。


 王妃が入ってきた。


 五十に近い年齢だが、背筋が伸びていて、目に強い光があった。エリナは礼をした。王妃も頷いた。二人で向かい合って座った。


 最初は世間話だった。ランドールの暮らしはどうか。旅は疲れなかったか。体の具合はよいか。エリナは丁寧に答えた。


 五分ほどで、本題に入った。


「エリナ、あなたは賢い子だから、遠回しには言わないわ」


 ソフィアが言った。声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。


「今回の調停がうまくまとまれば、ヴァロアはランドールへの感謝として大きな商権を提供するつもりでいます。南部の港の独占的な取引権。それはランドールにとっても、あなたの婚約者にとっても、大きな利益になる」


「はい」


 エリナは短く答えた。続きを待った。


「その代わりに、一つお願いがあります」


 ソフィアがエリナを見た。


「あなたをランドールではなく、ヴァロアに戻すよう、宰相を説得してほしいの。クロードの隣にあなたがいれば、今の宮廷の混乱も落ち着く。あなたはここで育った子だから、ここで生きるべきだと思っているの」


 エリナは少しの間、何も言わなかった。


 ソフィアの顔を見た。その目の奥に、何があるか、探った。後悔ではない。策略でもある。だが、本当にヴァロアのためを思っている部分も、ないとは言えなかった。


 それでも。


「王妃陛下」


 エリナは静かに口を開いた。


「ご提案、伺いました。ランドールへの商権については、ありがたいお話です。ただ、後半については、お受けすることができません」


「なぜ?」


「私はヴォルフォード家の娘であり、アレク・ランドール宰相の婚約者です。ランドールの利益に反することは、いかなる形であっても致しかねます。今回の調停においても、私はランドールの代表団の一員として動いています」


 エリナは一呼吸置いた。


「それに」


「それに?」


「私は自分の意志でランドールを選びました。戻るよう説得される理由が、今の私にはありません」


 ソフィアの顔色が変わった。


 穏やかな表情が、わずかに固くなった。目の光が、冷たくなった。エリナはそれを見て、やはりこの人は感情を制御することに慣れているのだと思った。怒りを表に出さない。それが、この人の強さでもあり、恐ろしさでもある。


「……そう」


 ソフィアが一言だけ言った。


「エリナ、あなたはずいぶん変わったわね」


「おかげさまで」


 エリナは微笑んだ。礼儀正しく、感情のない笑顔で。


「よい変わり方だったかどうかは、私が決めることではないかもしれませんが、私自身は悪くないと思っています」


 ソフィアは少しの間、エリナを見ていた。


 それから立ち上がった。面会はそれで終わりだという意思表示だった。


「調停がうまくいくことを、私も願っているわ」


「ありがとうございます」


 エリナは立ち上がって礼をした。



 宿に帰ると、アレクが待っていた。


「どうだった」


「予想通りでした。商権との交換で、私をヴァロアに戻すよう宰相を説得してほしいと」


「断ったか」


「はい」


 アレクは何も言わなかった。しかしエリナを見る目が、ほんの少しだけ柔らかかった。


「今後、王妃が何か別の手を打ってくる可能性があります。警戒しておいた方がいいかもしれません」


「わかっている」


 アレクが短く答えた。


「よくやった」


 エリナはその言葉を聞いて、少し目を細めた。


 この言葉は、もう何度か聞いた。でも聞くたびに、少し形が違う気がする。今日のそれは、どこか案じていた気持ちが解けたような、温かさがあった。


「ありがとうございます」


 エリナは素直に言った。


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