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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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第29話

 調停会議の四日目の午後、昼の休憩に入ったときのことだった。


 エリナが会議室を出て廊下を歩いていると、後ろから「エリナ」と呼ぶ声がした。


 振り返ると、クロードがいた。護衛が一歩後ろに控えていたが、それ以外に人はいなかった。


「少し、話せないか」


 クロードが言った。昨日の廊下のときと同じ問いかけだった。


 エリナは頷いた。


 二人は廊下の窓際に移った。クロードは少し声を落として話し始めた。今日の会議の流れについての所感だった。補償額の落としどころについて、タル国の代表が何を考えているかについて。内容は調停に関係することで、個人的な話ではなかった。


 エリナは聞きながら、丁寧に答えた。ランドールの立場として言える範囲で、率直に。


 五分ほどで会話が終わった。エリナが「では午後もよろしくお願いします」と言って廊下を戻ると、フィンが向こうから歩いてきた。なぜか少し複雑な顔をしていた。


「どうしました」


「いえ。ちょっと心配なことがありまして」


「何ですか」


「閣下が、今のところをご覧になっていたので」


 エリナは少し足を止めた。



 夕食はいつも通り三人でとった。


 フィンが今日の会議の振り返りを話した。エリナも参加した。アレクは必要なことだけ言って、あとは黙っていた。


 それはいつも通りだった。でも今夜は、いつもと何かが違った。


 アレクの態度が、わずかに固かった。エリナの方を向く回数が少なかった。返事が短かった。元々口数が多い方ではないので、傍目には変わらないかもしれない。でもエリナには、差がわかった。この半年で、この人の微妙な変化を読む目が育っていたから。


 食事が終わって、フィンが「今日は早めに休みます」と言って立ち上がった。アレクもすぐに席を立ちかけた。


「少し、よろしいですか」


 エリナが言った。


 アレクが止まった。フィンが「おやすみなさい」と素早く退場した。その去り際の足が少し速かった。


 エリナとアレクが、テーブルを挟んで二人になった。


「何かありましたか」


 エリナは静かに聞いた。


「何もない」


 即答だった。少し早すぎた。


「そうですか」


 エリナはそのまま待った。アレクは立ちかけた姿勢で、少し止まっていた。


「……昼に、クロード・レインと話していたな」


 ぽつりと言った。


「はい。調停に関することを少し」


「そうか」


「それだけです」


「わかっている」


 アレクが言った。しかしその声が、どこかぎこちなかった。わかっている、という言葉と、今の態度の間に、隙間がある。


 エリナはしばらくアレクを見た。



 翌朝、エリナは廊下でフィンを捕まえた。


「昨日、心配なことがあると言っていましたね」


「言いました」


「教えてもらえますか」


 フィンが少し躊躇してから、小声で言った。


「閣下はやきもちを焼くと無口になるんです」


 エリナは少し目を丸くした。


「この方が」


「はい。昔からそうで。感情を表に出せない方なので、嫌なことがあると黙るか、余計に事務的になるか、どちらかなんです。昨日の夜がまさにそれで」


「でも昨日は何もなかったんです。調停の話をしただけで」


「そうですよね。閣下も頭ではわかっておられると思います。ただ、感情がそれより先に動いてしまうようで」


 フィンが少し申し訳なさそうな顔をした。


「厄介なことをお伝えして申し訳ないんですが、閣下がエリナ様をそこまで気にしているということでもあるので。そういうふうに受け取っていただければと」


 エリナはしばらく考えた。


 それからフィンに「ありがとうございます」と言って、アレクの部屋の方へ歩いた。



 部屋の扉をノックすると、すぐに返事があった。


 入ると、アレクは机に向かっていた。書類を広げていた。エリナが入ってきても、顔を上げなかった。


 エリナはアレクの隣の椅子を引いて、そっと座った。


 アレクが少し止まった。ペンの動きが遅くなった。


「私が選んだのは、あなたです」


 エリナは静かに言った。


 遠回しにしても仕方がないと思った。この人は言葉をそのまま受け取る人だから、言葉で言わなければ届かない。


「昨日クロード様と話したのは、調停の件だけです。それ以外の何でもありません。そして、仮にそれ以外の何かがあったとしても」


 エリナは続けた。


「私はランドールを選んで、あなたの婚約者になることを自分で決めました。それは今も変わりません」


 長い沈黙があった。


 アレクはペンを置いた。机の一点を見ていた。


「……わかっている」


 小さく、低い声で言った。


 昨夜と同じ言葉だったが、今度は違った。昨夜は言い張るような言葉だった。今のは、受け取った、という言葉だった。


 エリナは少し肩の力を抜いた。


「では、今日の会議の準備をしましょう」


 立ち上がりながら言った。


 アレクが顔を上げた。その目が、昨日よりずっと柔らかかった。


「ああ」


 短く言って、書類に手を伸ばした。


 エリナも隣に座り直して、資料を開いた。


 窓から朝の光が差し込んでいた。


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