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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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第27話

 正式な調停会議は、ヴァロア王宮の中会議室で行われた。


 テーブルを挟んで、ヴァロア側とタル国側が向かい合う。ランドールはその間に位置する形で着席する。调停役としての席だった。アレクが正面に座り、エリナはその右隣、フィンが左隣についた。


 エリナが着席したとき、向かいのヴァロア側の席に、クロードがいた。


 金色の髪。柔らかな目元。記憶の中の顔と、ほとんど変わっていなかった。ただ、心なしか少し疲れているように見えた。目の下にわずかな陰があり、笑みを浮かべながらも、どこかぎこちなかった。


 クロードがエリナを見た。


 一瞬、止まった。


 それからアレクを見て、またエリナを見た。その視線が、落ち着きなく動いた。動揺を隠せていなかった。エリナの隣に座っているアレクが誰であるかを、クロードは知っているはずだ。頭ではわかっていても、目の前にするのは別のことだったのだろう。


 エリナはクロードを見て、静かに頭を下げた。


 調停役としての礼儀だった。感情は、そこになかった。



 会議が始まった。


 タル国とヴァロアの国境紛争は、表向きは農地の帰属問題だったが、根は深かった。百年前の条約の解釈の違い。水源の利用権。小さな集落の帰属をめぐる感情的な対立。どちらの側にも正当な主張があり、どちらの側にも譲れない事情があった。


 最初の一時間は、双方が主張をぶつけ合うだけで進まなかった。


 エリナはノートを取りながら、両者の発言を整理していた。どこに共通点があるか。どこが本当の対立点か。感情的な言葉の裏に何があるか。


 アレクが一度、隣のエリナに視線を向けた。


 エリナは手帳を少し傾けて見せた。そこには双方の主張を三列に整理した図が書いてあった。一致点、相違点、交渉可能な余地。


 アレクが短く頷いた。


「少し整理させていただいてよいですか」


 エリナが初めて口を開いた。


 場の視線がエリナに集まった。タル国の代表が少し眉を上げた。ヴァロア側のいくつかの顔が微妙に動いた。クロードが、エリナを見た。


「双方の主張を聞いていて、根本的な対立点は三つに絞れると思います。水源の共同利用の範囲、農地の帰属に関する基準年の設定、そして補償の方法です。それ以外の点については、表現の違いはあっても方向性は近い部分があります」


 エリナは手帳を机に置き、会議室の全員を見渡しながら続けた。


「まず補償の方法から話し合うことを提案します。ここが合意できれば、他の二点も動きやすくなる可能性があります」


 沈黙があった。


 タル国の代表が、アレクを見た。アレクが頷いた。


「その順序でよい」


 アレクが静かに言った。


 会議が動き始めた。



 午後の会議では、補償の枠組みについて具体的な数字が出てきた。


 エリナは双方の発言を聞きながら、落としどころを探り続けた。タル国が求める補償額と、ヴァロアが出せる上限の間には、まだ開きがあった。ただ、どちらも話し合い自体は続けようとしていた。それはよい兆しだった。


 交渉の途中、タル国の代表が「この問題は百年単位の歴史がある。一朝一夕に解決できるとは思っていない」と言った。


 エリナはそこで口を開いた。


「だからこそ、今日決められることと、継続協議とする事項を分けませんか。全部を今日片付けようとすると、どこかで詰まります。段階的に合意を積み上げていく方が、双方にとって持続可能です」


 アレクがエリナを横目で見た。少し前の口論の言葉が、両方の頭に浮かんでいるだろうと思った。段階的な実施、という考え方は、今日ここでも有効だった。


 タル国の代表が「それは現実的な提案だ」と言い、ヴァロア側も異を唱えなかった。


 会議が、また少し前に進んだ。


 クロードはその間、ほとんど発言しなかった。外務官僚たちに任せる形で、ただ議論を見守っていた。時折エリナを見た。エリナはそのたびに気づいたが、視線を返すことはなかった。返す必要がなかった。



 昼の休憩に入ったとき、エリナは会議室の外の廊下に出た。


 窓から中庭が見えた。懐かしい庭だった。春になれば花が咲くはずの場所で、今は枯れた枝だけが並んでいた。


「エリナ」


 後ろから声がした。


 振り返ると、クロードが立っていた。護衛も連れていなかった。廊下には二人だけだった。


「少し、いいか」


 エリナは頷いた。


 クロードは窓の外を見た。少しの間、何も言わなかった。


「変わったね」


 ぽつりと言った。


 エリナはその言葉を受け取った。変わった。そうだろうと思う。あの舞踏会の夜から一年も経っていないのに、自分でも驚くくらい何かが変わった。


「そうですね」


 エリナは微笑んで答えた。


 それだけだった。


 哀れむつもりも、責めるつもりも、感傷に浸るつもりも、なかった。ただ、変わった、という事実だけがそこにあった。


 クロードがエリナを見た。何かを言おうとして、言葉が出ないようだった。エリナを見て、その隣には今アレクがいて、自分の選んだ道の先に今のクロードがある。そのすべてが、この廊下に詰まっているようだった。


「……元気そうで、よかった」


 クロードがやっと言った。


「ありがとうございます」


 エリナは答えた。


「クロード様も、お疲れのようですが」


「まあ、色々あって」


 クロードが苦く笑った。


「午後の会議も、よろしくお願いします」


 エリナはそう言って、廊下を戻った。


 クロードの視線が背中に当たるのを感じたが、振り返らなかった。


 振り返る必要が、なかった。


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