第17話
北部視察の話が出たのは、仮婚約の話し合いから十日ほど後のことだった。
執務室でアレクが地図を広げ、フィンと何事かを話し合っていた。エリナが書類を持って入ると、アレクが顔を上げた。
「北部の農村地帯を視察する。同行するか」
聞き方は問いかけの形をしていたが、同行を期待しているのが伝わってきた。エリナは地図を覗き込んだ。王都から北へ馬で二日ほどの距離。冬が近づいているこの時期の視察は、越冬準備の状況確認が主な目的だろう。
「行きます」
即答した。
フィンが小さくガッツポーズをするのが視界の端に映った。
一行は四人だった。アレクとエリナ、フィン、それに護衛が一名。大きな馬車ではなく、小回りの利く軽い馬車を使った。
出発は夜明け前だった。
冬の近い朝の空気は冷たく、馬車の中でもしばらくは息が白かった。エリナは膝掛けを広げ、窓の外の景色を眺めた。王都を出ると、すぐに農地が広がった。収穫を終えた畑が続き、遠くに山並みが見えた。空は白く、雲が低かった。
アレクは出発してすぐに書類を広げた。
いつも通りだと思いながら、エリナも手帳を取り出した。視察先の村の名前と規模、前回視察からの変化点、昨年の収穫量の記録。事前に調べたことを確認しながら、現地で聞くべきことを整理した。フィンだけが、窓の外を眺めたり、鼻歌を歌いかけてアレクに一瞥されて止めたりを繰り返していた。
最初の村に着いたのは、二日目の昼前だった。
村長が出迎えてくれた。六十がらみの、日に焼けた顔の男だった。アレクの視察は毎年恒例らしく、村人たちも慣れた様子で集まってきた。
アレクが村長と話している間、エリナは少し離れたところに立っていた老婆たちの輪に近づいた。
「今年の収穫はいかがでしたか」
老婆の一人が驚いたように顔を上げた。
「あんた、お偉いさんの連れかい」
「宰相閣下の補佐をしています」
「ふうん」
老婆はしばらくエリナを上から下まで見てから、少し表情を和らげた。
「今年は麦は悪くなかった。でも根菜が不作でねえ。夏に雨が多すぎて」
「それは王都でも影響が出ていました。越冬の備蓄はどうですか」
「まあ、なんとかなるとは思うけど、若い人が減ってきてね。一人でできる仕事に限りがあって」
エリナは話しながら手帳にメモを取った。老婆はそれを見て少し嬉しそうな顔になり、隣の女性を引っ張り込んでさらに話を続けた。気づけば三人、四人と集まってきていた。
少し離れた場所から、アレクがその様子を見ていた。
何かを言うわけでもなく、ただ静かに見ていた。その目が細くなったのを、エリナは気づかなかった。
二軒目の村を訪ねたのは翌日の午前中だった。
ここでは若い農家の夫婦が道の補修について切実に訴えた。冬になると荷車が通れなくなる区間があり、物資の運搬に毎年困っているという。エリナはその場所を具体的に聞き取り、地図に書き込んだ。帰り道にアレクへそのまま報告すると、アレクは「次の予算案に組み込む」と短く言った。
それだけだったが、エリナには十分だった。ここで聞いたことが、書類になり、予算になり、来年の春に道になる。そういう繋がりが見えるのが、この仕事の面白さだった。
その日の夕方、一行は街道沿いの宿に入った。
夕食は四人で食卓を囲んだ。簡素だが温かい食事だった。煮込みのスープと焼きたてのパン、根菜の炒め物。外は風が出てきていて、窓が時々鳴った。暖炉の火が赤く揺れていた。
食事が終わりかけたころ、フィンがぽつりと言った。
「閣下、最近よく笑いますね」
一瞬、食卓が静かになった。
「……何の話だ」
「いや、今日も村の子どもが閣下の足にしがみついたとき、口元が動いていましたよ。笑ってたんじゃないですか」
「気のせいだ」
「でも——」
「うるさい」
フィンが肩をすくめた。
エリナはスプーンを持ったまま、黙って聞いていた。否定も肯定もしなかったが、確かに今日、アレクの顔が何度かほんの少しだけ緩む場面があった。子どもに懐かれたとき。老農夫が去年より羊が増えたと誇らしそうに報告したとき。そしてエリナが手帳を取り出すたびに老婆たちが競うように寄ってくるのを見たとき。
そういったことを、エリナも覚えていた。
アレクがふとこちらを見た。
エリナは思わず目が合った。何かを言おうとして、言葉が出てこなかった。アレクも何も言わなかった。二人同時に、わずかに視線をそらした。
フィンが見ていた。にやにやしていた。
「フィン」
アレクが言った。
「なんですか」
「黙れ」
「はい」
フィンは素直に黙ったが、口元の笑みは最後まで消えなかった。
窓の外で風が鳴った。エリナはスープの最後の一口を飲みながら、今日一日のことをゆっくりと思い返した。
農村の言葉は、書類より正直だ。不満も、希望も、疲れも、そのまま出てくる。それを聞き取ることが、エリナには向いている気がした。そしてそれを、アレクは静かに見ていた。
ただそれだけのことが、なんとなく温かかった。




