第18話
雨は夜中から降り始めた。
最初は細い雨だった。宿の屋根を叩く音を聞きながら、エリナは翌日の視察先の資料を確認して眠りについた。
朝になっても、雨は止まなかった。
それどころか強くなっていた。宿の主人が青い顔で「上流で増水しているという話が来ました」と言いに来た。街道の一部が水没し始めているらしい。
アレクはすぐに地図を広げ、フィンと護衛を呼んだ。エリナも加わって、現状の確認が始まった。
「王都と北部を結ぶ主要補給路が、この区間で寸断される可能性がある」
アレクが地図の一点を指した。エリナも同じ場所を見た。川沿いを通る低地の区間だ。水量が増せば道が水に沈む。そうなれば、この先の三つの村への物資輸送が止まる。
外の雨が、また強くなった。
「越冬前の備蓄輸送が今月中にある予定だった」
フィンが渋い顔で言った。
「この雨がいつまで続くか次第ですが、最悪一週間は通れなくなるかもしれません」
孤立した村への備蓄が間に合わない。冬の前に、それは深刻な問題だった。
エリナは地図を見ながら、頭の中で何かを探していた。
昨夏の市場で聞いた話が、記憶の奥から浮かんできた。
あのとき野菜の露店の老人が言っていたこと。そして、先日この北部への道中で別の商人から聞いた話。もう一つは、視察一日目の村の若者が何気なく話していたこと——。
「少し、確認させてください」
エリナは手帳を開いた。メモを繰り、地図と照合した。
「この村の東側に、林道があります。荷馬車が通れるかどうかは確認が必要ですが、もともと木材の搬出に使われていた道で、川から離れているので水没のリスクは低い」
全員がエリナを見た。
「それが一案です。もう一つ、王都からではなく、北東の町から迂回して物資を調達する方法があります。あの町には穀物の集積所があると聞きました。距離は遠くなりますが、主要補給路を使わなくて済む」
「三案あると言おうとしているのか」
アレクが静かに聞いた。
「はい。三案目は、孤立の可能性が高い村に先に人を送り、今ある備蓄の棚卸しをしてもらうことです。実際に不足が深刻なのがどの品目かを把握してから、優先して届けるものを絞る。全部を同時に動かすより、損失が少ない」
エリナは一息ついた。
「どれが最善かは、私には判断できません。現地の状況や人手の問題もあるので。ただ、選択肢としてはこの三つが考えられます」
部屋の中がしばらく静かだった。
雨の音だけが続いていた。
アレクはエリナを見ていた。
何秒かの沈黙の後、アレクは地図に視線を戻した。
「林道の確認を今すぐ。北東の集積所への連絡は、護衛を使者として出す。村への先遣は、フィン、お前が行け」
次々と指示が出た。フィンが頷いて立ち上がり、護衛が動いた。宿の主人も何事かを頼まれて走っていった。
十分もしないうちに、それぞれが動き始めた。
エリナは地図の前に残り、各案の手順を細かく書き出した。誰がどこへ行き、何を確認し、何時までに結果を戻すか。アレクがそれを横から確認しながら、必要なところを書き加えた。
二人で机に向かって書類を作るのは、執務室でいつもしていることと同じだった。ただ今日は部屋が狭く、窓の外の雨音が大きく、どこかぴりっとした緊張感があった。
その日の夕方、三つの案はそれぞれ動き出した。
林道は荷馬車が通れることが確認された。北東の集積所からは、二日以内に物資を出せるという返事が来た。フィンから先遣の報告も入り、備蓄の実態が把握できた。
一番深刻な村への優先輸送が決まった。
夜、宿の食堂でアレクとエリナが二人になる時間があった。フィンはまだ村にいた。護衛は別の席にいた。
アレクが湯気の立つ茶を飲みながら、ぽつりと言った。
「あなたがいなければ、対応が二日は遅れていた」
感情のない声だったが、それがかえって言葉の重みを感じさせた。
エリナは少し考えてから、素直に答えた。
「嬉しいです」
アレクが少し目を上げた。
「市場での話や、道中で聞いたことが、今日役に立ちました。あのときはただ聞いていただけで、まさかこういう形で使えるとは思っていなかったけれど」
「偶然ではないだろう」
「そうかもしれません。でも、自分では気づいていませんでした」
エリナは窓の外の雨を見た。まだ降り続けていたが、昼よりは少し弱くなっていた。
「聞き集めることが好きなのかもしれません。人の話を聞いて、それをどこかに繋げることが」
「それはお前の才能だ」
短く、はっきりと言った。
エリナは少し黙った。才能、という言葉をこの人から聞いたのは初めてだった。補佐として使える、という評価ではなく、才能、という言葉。
「ありがとうございます」
今度は間を置かずに言えた。
アレクは何も言わなかった。ただ茶を一口飲んで、窓の外を見た。
雨の音が、少し遠くなった気がした。




