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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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第16話

 仮婚約の期限が来たのは、エリナがランドールに来てちょうど半年が経った、秋の初めの朝だった。


 アレクに書斎へ呼ばれた。執務室ではなく書斎だった。執務室は仕事の場所で、書斎はアレクが一人でいる場所だ。呼ばれたのは初めてだった。


 扉を開けると、アレクは机の前に立っていた。椅子には座っていなかった。窓から秋の光が差し込んでいた。


「座ってくれ」


 アレクが言った。エリナは向かいの椅子に腰を下ろした。アレクは立ったままでいた。


 少しの間、沈黙があった。


 アレクがなかなか口を開かないのは珍しかった。この人は普段、無駄な前置きをしない。それなのに今日は、何か言いかけて止まることを繰り返しているように見えた。


 エリナは待った。


「このまま、婚約を正式なものとしたい」


 ようやく出てきた言葉は、事務的だった。


 仮婚約期間が終わる。その結論として、正式婚約へ進む。それを告げている声は、まるで書類の確認をしているときと同じトーンだった。


 エリナは少し考えた。


 答えを持っていないわけではなかった。ただ、この言葉だけでは足りなかった。



「少し、よろしいですか」


 エリナは言った。


 アレクが目を向けた。


「私の気持ちを、聞いてもらえますか」


 アレクが、わずかにたじろいだ。


 それは本当にわずかなものだったが、エリナにはわかった。この人が感情を隠すのに慣れているせいで、逆に小さな変化がよく見えるようになっていた。いつもより少し目線が動いた。いつもより少し間が長くなった。


「……聞く」


「あなたのそばにいることは、苦ではありません」


 エリナは言葉を選びながら、丁寧に続けた。


「この半年、楽しいと思うことも、やりがいを感じることも、ありました。あなたは私の意見を正面から扱ってくれた。それは最初に望んだ通りで、感謝しています」


 アレクは黙って聞いていた。


「でも、一つだけ、まだわからないことがあります」


「何だ」


「あなたが私のことを、どう思っているのかが、わかりません」


 アレクが少し目を細めた。


「補佐として評価している、ということは伝わっています。一緒に仕事をして、信頼していただけていることも。でも、それは婚約の理由としては足りない」


 エリナは静かに、しかしはっきりと言った。


「あなたが私に何を求めているのか。補佐としての能力だけなのか、それとも他に何かあるのか。私がここにいることを、あなたはどう思っているのか。それを知らないまま、正式に婚約する決断が、私にはできません」


 部屋の中が静かだった。


 窓の外で、風が木の葉を揺らした。秋の始まりの、乾いた音だった。



 アレクはしばらく立ったままでいた。


 立っているのに、何かを支えにしたいような様子だった。机の縁に指先をわずかに当てていた。


 エリナはその様子を見ながら、急かさなかった。この人に問いかけるときは、時間が必要だとわかっていた。答えを出すのが遅いのではなく、答えを言葉にすることに慣れていないのだ。


 そういうことが、半年でわかってきた。


「私は……」


 アレクが口を開いた。それからまた止まった。


 また始めた。


「お前が来る前と、来た後で、何かが違う」


 声が、いつもより低かった。


「何が違うのか、うまく言えない。ただ、違う。執務室に明かりがある。廊下に気配がある。食卓に声がある。それが当たり前になっている」


 エリナは息を呑んだ。


「お前がいなくなることを、想像したくない」


 アレクは窓の外を向いたままだった。エリナを見ていなかった。それでも、声は確かにエリナに向かっていた。


「それ以上のことは、まだ言葉にならない。言えるかどうかも、わからない」


 エリナは少しの間、胸の中でその言葉を反芻した。


 想像したくない。それ以上でも以下でもない言葉だった。告白でも、誓いでもない。でもこの人が言える精一杯だということは、なんとなくわかった。


「わかりました」


 エリナは言った。


「もう少し、時間をください」


 アレクが初めてエリナを見た。


「……私にか」


「私にです。あなたの言葉は受け取りました。私の方でも、もう少し考えさせてください」


 アレクが目をわずかに細めた。それから小さく頷いた。


「……わかった。もう少し、時間をくれ」


 エリナは立ち上がった。


「ありがとうございます」


 礼をして書斎を出た。廊下に出てから、少しだけ立ち止まった。


 胸の中がざわざわしていた。嬉しいのか、戸惑っているのか、両方なのか、判別がつかなかった。ただ、何かが動いた感じはした。


 ゆっくりと歩き出しながら、エリナは今日の言葉を静かに整理した。


 想像したくない、と言った。


 この人が、そんなことを言う人間だったとは。


 知らなかった。まだ、知らないことがたくさんある。それが今は、悪いことではない気がした。


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アレク最低!
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