第13話
市場に行こうと言い出したのはフィンだった。
「閣下、今日は午後から予定が何もないんです。珍しいことです。こういう日は外に出た方がいい。エリナ様もランドールの王都をまだちゃんとご覧になっていないでしょう」
執務室でアレクが書類から目を上げた。
「必要ない」
「でも閣下、最後に市場へ行かれたのいつですか」
「覚えていない」
「それが問題なんです。では決まりということで」
アレクが何か言う前に、フィンはエリナの方を向いて「よろしいですか」と聞いた。エリナは少し驚きながらも頷いた。
「ぜひ」
アレクは一瞬、二人を交互に見た。それから小さくため息をついた。
「……わかった」
フィンが満足そうに笑った。
王都の中央市場は、宰相邸から馬車で十五分ほどの場所にあった。
平日の午後だというのに、人がいた。色とりどりの日除け布が張られた露店が並び、野菜、果物、魚、布、陶器、乾物とあらゆるものが売られていた。客と売り手の声が重なり合い、荷車が行き交い、子どもが走り回っていた。
アレクは明らかに居心地が悪そうだった。
背が高いせいで目立つ上に、いつもの執務用の服装がこの場では浮いていた。人混みの中で足元を確かめるように歩き、露店の前で立ち止まるたびにわずかに眉を寄せた。
「閣下、そんな顔をしていると売り手の方が怖がりますよ」
フィンが小声で言った。
「こういう顔だ」
「せめて口元だけでも」
「うるさい」
エリナはその会話を横で聞きながら、すでに足が前に向いていた。野菜の露店の前に立ち止まり、並んでいるものを手に取った。
「これ、先週より少し値が上がりましたね」
店主の老人が目を細めた。
「お嬢さん、よくわかるね」
「先週、別の店で同じものを見たので。北の方で収穫が遅れていると聞きましたが、それですか」
「そうそう、今年は雨が多くてね。あと半月もすれば落ち着くと思うけど」
エリナは老人と話しながら、値段と産地と時期の話を引き出した。表向きは世間話だったが、頭の中では情報を整理していた。北部農村の収穫状況、王都までの流通の遅れ、季節ごとの価格変動。どれも執務の資料では見えにくい、現場の肌感覚だった。
少し離れたところから、アレクがそれを見ていた。
魚の露店を過ぎ、乾物屋の前に差し掛かったとき、フィンが急に「ちょっと待ってください」と言ってどこかへ駆けていった。知り合いを見かけたらしく、少し先の店の前で話し込み始めた。
エリナとアレクが二人並んで、露店の前に立つ形になった。
沈黙が来た。
エリナは特に気にせず、隣の陶器の露店を眺めた。素朴だが丁寧に作られた小皿が並んでいた。ヴォルフォード邸の食器とは違う、土の風合いが残る質感だった。
「先ほどの農家との話、資料に使えそうなものがいくつかありました」
エリナはアレクに向かって言った。
「北部の収穫遅れが、王都の物価に出始めているようです。先月の報告書には反映されていなかったと思うので、次の会議に上げた方がいいかもしれません」
「……確認する」
アレクが短く答えた。
それきりまた黙った。でも、不快な沈黙ではなかった。この人との沈黙には、ずいぶん慣れてきた。
隣の露店で、干し果物を売っている老婆がエリナたちをじっと見ていた。七十は過ぎているだろう、小柄で皺の深い顔をした女性だ。
「兄さん、奥さんかい」
老婆がアレクに向かって言った。
アレクが固まった。
「いや、そういうわけでは——」
「あんた、いい嫁さんだね」
今度はエリナに向かって言った。
「さっきから見てたけど、よく気がつく子だ。こういう子が来ると市場も賑わうよ。兄さんも大事にしなよ」
「ありがとうございます」
エリナは笑顔で答えた。
横を向くと、アレクが視線を微妙に外していた。耳の先がわずかに赤いような気がした。気のせいかもしれない。エリナも何も言わなかった。言えるはずがなかった。
老婆から干し果物をひとつかみ買って、その場を離れた。
フィンが戻ってきて、三人で来た道を歩いて戻ることになった。
帰り道は市場から邸までの大通りを歩いた。人通りは少なくなっていた。西に傾いた日が、石畳を橙色に染めていた。
フィンが前を歩きながら、見かけた知人の話や市場で気になった露店の話をしゃべり続けていた。エリナは相槌を打ちながら歩き、ふと自分の歩幅が少し窮屈な感じがするのに気づいた。
アレクが、歩幅を合わせていた。
エリナより頭一つ分以上背が高い。普通に歩けば歩幅も大きい。なのに今、エリナのペースに合わせるように、少しゆっくり歩いていた。意識してそうしているのかどうか、エリナにはわからなかった。アレク本人も、気づいていないかもしれない。
ただ、それに気づいたとき、胸の中に小さな温かさが生まれた。
言葉でも、表情でもなく、ただ歩幅を合わせるだけの気遣い。
それがこの人の、たぶん精一杯のやり方なのかもしれないと思った。気づいていないふりをしながら、それでも隣の人間のことを、ちゃんと見ている。
エリナは前を向いたまま、少しだけ口元を緩めた。
手のひらの中に、老婆から買った干し果物があった。かじると、思ったより甘かった。
夕日が三人の影を、細長く石畳の上に伸ばしていた。




