第14話
手紙は、二通同じ日に届いた。
朝の執務が始まる前、侍女のアンナが盆に乗せて持ってきた。一通は母カトリーヌからで、見慣れた丸みのある字が表書きに並んでいた。もう一通は、エリナがすぐに差出人を確認しなかった。母の手紙を先に読もうとして、机に置いたとき、封蝋の紋章が目に入った。
ヴァロア王家の紋章だった。
エリナは少し手を止めた。それからまず母の手紙を開いた。
カトリーヌの手紙はいつも長かった。
書き出しは近況報告だった。庭の花が咲いたこと。父が最近少し腰を痛めたが大事はないこと。使用人のオルガが嫁いだこと。エリナが好きだった書斎の本棚の並びを変えたら父に怒られたこと。読んでいると、ヴォルフォード邸の空気が鼻の奥に甦るような気がした。
中ほどから、ヴァロアの話になった。
「ヴァロアではリリア・テイン嬢が王太子の傍らでほとんど正妃のように振る舞い始めているそうで、宮廷内が騒然としているという話が届いています。正式な婚約発表もまだないのに晩餐会に同席する、式典に出席するなど、礼法の面でも問題になっているようです。貴族たちの間では反発も強いとのこと。クロード殿下はというと、母君の言葉には従うが、リリア嬢の振る舞いについてはなかなか強く言えない様子とか」
エリナはその箇所を二度読んだ。
怒りはなかった。哀れみも、溜飲が下がるような気持ちも、思ったほどなかった。ただ、目に浮かぶものがあった。
リリアという娘は、悪い子ではないと思う。あの舞踏会の夜、遠くから一目見ただけだが、彼女は明るそうで、素直そうで、宮廷というものを何も知らない顔をしていた。その娘が今、貴族たちの視線の中心に放り込まれている。
それを喜ぶ気には、なれなかった。
手紙の最後の方には「あなたがランドールで元気にしていると聞いて安心しました。アレク宰相はどんな方ですか。お母さんにだけでいいので教えてください」と書いてあった。エリナは少し笑いながら、返事の文面を頭の中で考えた。
それから、二通目の手紙に手を伸ばした。
封蝋を外すとき、少し指が止まった。出発の朝、封を開けずに棚に置いてきた手紙のことを思い出した。あのときは開けなかった。でも今日は、なぜか開ける気になった。
理由はわからなかった。ただ、今日なら読める気がした。
中の紙は一枚だった。クロードの字は以前から几帳面だった。きれいに整えられた文字が、短い文章を作っていた。
「エリナへ。元気でいるか。ランドールには馴れたか。突然のことで、君を傷つけたことは謝っても謝りきれないとわかっている。それでも書かずにいられなかった。君のことが、時々夢に出る。幸せでいてほしい。クロード」
エリナはしばらく手紙を持ったまま、窓の外を見た。
何を感じているのか、うまく言葉にならなかった。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。後悔でもなかった。強いて言えば、遠さ、だった。同じ字で書かれた言葉なのに、ずいぶん遠い場所から届いたもののように感じた。
「時々夢に出る」
声に出してみた。
この人は今、何を思ってこれを書いたのだろう。エリナへの気持ちなのか、自分の決断への迷いなのか、それとも過去への名残惜しさなのか。どれも少しずつ混ざっているのかもしれない。
でも、それはもうエリナには関係のない話だった。
エリナはゆっくりと手紙を折りたたんだ。
封筒に戻して、机の引き出しを開けた。奥の方にしまった。見えないところに。捨てはしなかった。これはクロードという人間の誠実さの欠片だと思ったから。でも、手の届くところに置いておく必要もなかった。
引き出しを閉めた。
机の上に、今日処理すべき書類が積んであった。執務棟へ持参する資料も用意してある。午前中に確認すべき条約の改定案が二件。午後はアレクとともに地方から来た代官との面談がある。
エリナは椅子を引いて、書類を手に取った。
母への返事は夜に書こう。アレク宰相のことを、どう書くか。口数が少ない人です、では伝わらない。仕事に誠実な人です、というのは正確だけれど全部ではない。
歩幅を合わせてくれる人です、というのが今のところ一番正直かもしれない、とエリナは思った。
それを母に書いたら、きっと変な顔をされるだろう。でも、本当のことだから仕方がない。
ペンを取り、書類の一行目に視線を落とした。
窓の外では、夏の朝の光が石畳に降り注いでいた。




