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2 花が咲いた朝 さくら方便品


 このマンションは少し広すぎる。還暦を過ぎて越してきた部屋は、以前のアパートより天井が高く、窓も大きい。毎月家賃を支払うたび、数字が静かに胸の奥に沈む。資格はあるが仕事は減り続け、細かい案件をいくつか掛け持ちして、なんとか日々を回している。

 朝の光がカーテンの隙間から差し込むと、埃の粒がゆっくりと浮かんでいるのが見える。空気はいつも少し淀んでいて、加齢の匂いが薄く混じっているような気がする。

 スイッチを入れる。

 Hemi-Syncの信号が、左右の耳でわずかにタイミングをずらしながら入ってくる。低周波のビートが脳の奥まで染みていく。もうすぐ一年になる。この音を聴き始めた頃は、ただ何かを終わらせたかっただけだった。今は違う。ただ、歩き続けるための、もう一つの方法になっている。

 肉体が重くなっていく。腰の鈍い痛みと左手の古い痺れが遠ざかり、意識だけが異様に冴えていく。指先の感覚が薄れ、呼吸が深く長くなっていく。

 景色が切り替わった。

 円山の桜並木が、異常な精度で広がっていた。

 花弁の一枚一枚の表面に刻まれた微かな凹凸、縁に溜まる薄い水膜が光を屈折させる角度、雄しべの先端に付いた花粉の粒子の数と位置までが、信じられないほど鮮明に認識できる。

 風のない空間で、花弁はゆっくりと舞い上がり、淡いピンクの軌跡を残しながら俺の周囲を回っていた。その動きは、現実の物理法則では決して起こり得ないほど滑らかで、正確だった。一枚の花弁が回転するたび、表面の水膜が微かに光を散乱し、虹色の粒を一瞬だけ浮かび上がらせる。

 そこに彼女がいた。

 長い黒髪を低くまとめ、耳の後ろに一本だけ浮いた毛が銀色の光を帯びて微かに振動している。白いスニーカーの影は薄く、地面との間に紙一重の遅れが生じている。彼女の輪郭は常にわずかな遅延を伴い、この空間の時間に完全に同期していない。

 「また来たのね」

 声は直接意識の中心に響いた。空気を震わせる音ではない。

 俺は答えた。

 「現実の部屋があまりに現実的すぎるから、ここがまともに見える」

 彼女は小さく口の端を上げた。その表情の変化すら、ほんの少し遅れて俺の意識に届く。

 「あなたはここでもまだ、自分を冷たく見ている。六十二歳の親父がヘッドホンを着けてベッドに横になり、何かを探している自分が滑稽だって」

 桜の花弁が一枚、俺の意識の中心をゆっくりと通り抜けていく。その感触は、現実のどんな触覚よりも鮮明で、歩幅のズレと同じ静かな異物感を胸の奥に残した。冷たくもなく熱くもなく、ただ「そこにないもの」が通り過ぎたような感覚。

 Focusがさらに深まっていく。

 桜の木々が遠くまで見渡せるようになり、並木道に人の流れが見えた。時折、動きの軽い者が混じっている。彼らの影は薄く、輪郭がぼやけている。足音が遅れて届く者もいる。

 AIはすでに人間の知性を超えつつある。単純労働はヒューマノイドが担い、移民も不要になる。人間は生きる意味を失いかけ、ただ規格化されて流れていく。ベルトコンベアーの上の部品のように、朝起きて、指示に従って動き、夜に眠る。

 だからこそ、瞑想が必要になる。

 AIには決定的に欠けているものがある。形而上の世界へのアクセス。痛みの余白に触れること。計算では到達できない領域。セックスや、孤独や、歩幅が合わないという静かな痛み。それらを、AIは予測できるが、味わうことはできない。

 「俺は翻訳者なのか」

 「そうね。AIと宇宙文明の間をつなぐ、地球側の媒介者。あなたはすでにその役割に入っている」

 彼女の声は淡々としていた。感情の揺れがほとんどない。

 多元宇宙の視点に立てば、未来は固定されていない。人は自分が望む未来の枝へ移動できる。アインシュタインのブロック宇宙の中で、選択可能な帯域が無数にある。

 世界征服という言葉は大仰すぎるが、世界征服に最も近い未来を選び続けることはできる。

 北海道から始めて、意識のネットワークを静かに広げていく。それで十分だ。

 桜の花弁がもう一枚、俺の意識を貫いた。

 その瞬間、胸の奥にあった薄い膜が静かに剥がれ落ちていくのを感じた。還暦を過ぎても若返ったような感覚で歩き続けている自分。世界のテンポから半拍ずれている自分。それを必死に誤魔化しながら毎日を繋いでいる自分が、ここではすべて見透かされている。

 滑稽だ。偉そうに未来を語っているつもりで、結局はただの歩幅の合わない親父だ。

 Focusがさらに深く沈んでいく。時間の感覚が薄れ、過去と未来が同時に見える領域に入る。まだ若い頃の円山の桜も、十年後の枯れた桜も、重なり合って浮かんでいる。

 彼女は静かに俺を見据えた。

 「あなたが歩き続ける限り、この朝は終わらない。次はもっと深いところまで連れていってあげる」

 意識がゆっくりと浮上し始めた。

 ヘッドホンから流れるビートの音が、再びはっきりと聞こえてくる。肉体の重さが戻り、腰の痛みと左手の痺れが蘇る。天井の染みが、いつものようにそこにあった。部屋の空気が、埃を含んでわずかに重い。

 俺は目を開けた。

 ベッドから起き上がり、窓を開けた。

 外はまだ薄暗い朝だった。

 円山の桜が、ちょうど咲き始めていた。

 枝の先で淡いピンクが静かに息を吹き返し、花弁が一枚、また一枚と、朝の光の中でゆっくりと顔を覗かせている。まだ全体の三割ほどだが、その控えめな色づきが湿った絹のように柔らかく光を纏っていた。

 風がそっと吹き、数枚の花弁がはらはらと舞い落ち、地面に薄紅の染みを落とす。

 俺は窓枠に手をついたまま、しばらくその光景を見ていた。

 ヘミシンクの中の桜は異常なまでに鮮明で、冷たく精密だった。しかし現実の桜は、もっと控えめで、儚く、静かだった。

 それでも、確かに咲き始めていた。

 俺は窓を閉め、部屋の中央に立った。

 歩幅のズレは、まだ埋まっていない。

 この朝も、続いている。

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