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3 火の海の翻訳者 さくら火宅品


 Focusを深く、深く落とした。

 ビートが骨の髄を抉るように響き渡り、意識がFocus 25の領域を突き抜ける。すると、円山の桜並木が爆発するように視界いっぱいに広がった。

 一枚の花弁が風に乗り、ゆっくりと舞い上がる。その表面に刻まれた微細な凹凸が光を細かく捉えては跳ね返し、縁に張った薄い水膜が波打つたび、虹色の粒が無数に生まれ、瞬時に消える。水膜は生き物のように震え、表面張力で微かに膨らんでは縮み、光の角度を複雑に変えながらスペクトルを吐き出す。雄しべの先端では花粉の粒が一つ一つ回転し、風に乗って空中を踊るように飛び交い、隣の花弁と触れ合っては軽く弾かれる。落ちる花弁は重力に引かれながらも意志を持つように弧を描き、すべての動きが異常な精度で息づいていた。

 現実など比べ物にならない、圧倒的なリアルさと躍動だった。

 しかしその美しさは、静かに、容赦なく灰色に侵されていく。

 ピンクが端から失われ、水膜が乾び、虹色が消え、花粉の粒が重く沈み、舞い上がっていた花弁の動きが揃った重いリズムに飲み込まれていく。並木全体が巨大な波のようにゆっくりとうねりながら灰色へ染まっていく。灰色化の波は根元から這い上がり、桜の幹を黒ずませ、地面に落ちた花弁を粉のように砕いていく。空気は重く淀み、かすかな化学薬品のような匂いが漂う。温度は不自然に一定で、肌にまとわりつくような冷たさがあった。

 彼女が現れた。

 白いスニーカーのゴム底が地面を押す圧力、耳の後ろで一本だけ浮いた銀色の毛が微かに震える様子、唇の細かな縦じわ——すべてが鮮明に捉えられる。ただ、彼女の輪郭全体に明らかな遅延があった。その遅れが、ここでは唯一の生々しい躍動のように感じられた。

 俺は並木道を歩き始めた。

 還暦を過ぎた腰が重く疼き、左手の古い痺れが棘のように刺さる。呼吸が浅くなり、視界が狭まる。心臓の鼓動までが周囲の「正しいリズム」に強制されているような違和感があった。毎朝のように「まだ歩ける」と自分に言い聞かせてはいるが、実際は半拍遅れた滑稽な親父だ。ヘミシンクを聴いて桜を見ているだけの、ただの老いぼれ。胸の奥でいつも嘲笑っている自分がいる。

 街は現実とほとんど変わらなかった。セブンイレブンの明るい看板が光り、ローソンの青い看板が並び、自動販売機が静かに唸り、車が道路を一定の速度で流れていく。歩道では人々がスマホを片手に歩いている。しかしその動きは皆、妙に揃っていた。足の運び、息遣い、視線の角度、スマホをスクロールする指の速度——すべてが同期している。彼らはこの世界から現実を覗き込み、自分たちの分身を操作しているような優越感に浸っている。

 そのとき、腹の底から響く大きな声が飛んできた。

「おいおい、君! ちょっと待ちなさい!」

 白髪を短く刈り込んだ大柄な老人が、威勢よく俺の前に立ち塞がった。学者らしい鋭い目つきに、どこか芝居がかった大仰な身振り。声がでかい。腹の奥から湧き出るような、太くて低い声だ。

「見てみろこのデータ! ここが霊界であるという科学的証拠はもう揃っているんだ! 私が生きている頃から三十年以上かけて集めたデータだぞ!」

 老人は手に持った端末を俺の鼻先に突きつけてきた。画面には無数のグラフと数値が激しく踊っている。彼はさらに身を乗り出し、唾を飛ばしながら熱く語り続ける。

「私はな、ずっと研究してきたんだ! 死後の世界を科学的に証明する——それが私のライフワークだった! それがどうだ、今こうして実際にここに立っているというのに、まだデータを取り続けている! はははっ! 面白いだろう? 霊界にいながら霊界の存在を証明しようとしている自分が!」

 老人は自分の滑稽さを自覚しながら、大きな腹を揺らして豪快に笑った。だがその目は本気だった。学者肌の厳しさと、どこか文学的な暗い情熱を併せ持ち、なおかつ熱烈な信仰心を秘めたような、個性的で異様な親父だった。

 彼はさらに声を張り上げ、周囲に響き渡るように語り続ける。

「科学がすべてだ! データがすべてを語る! カネで測れない価値などない! 健康で若々しい身体こそが人間の頂点だ! それを否定する者は、進化から取り残された敗北者に過ぎん!」

 周囲の人々は一瞬だけこちらを見たが、すぐにまた自分のスマホに視線を戻した。彼らはこの世界から現実を覗き込み、自分たちの分身を操作しているような優越感に浸っている。

 老人の声はますます熱を帯びる。

「私は生きていた頃から変わらない! ここにきてからも研究を止められない! 霊界にいるというのに、霊界の存在を科学的に証明しようとしている! これほど滑稽な話があるかね!」

 俺はただ呆然とその姿を見つめていた。

 霊界にいながら、霊界を科学的に立証しようと躍起になる老人。自分の滑稽さを笑いながらも、まったくやめられない。その姿は痛ましくもあり、妙に愛おしくもあった。還暦過ぎの俺と大して歳の変わらないジジイが、死んだ世界でまだ研究を続けている。その姿はどこかユーモラスですらあった。

 彼女が俺の耳元で静かに囁いた。

「ここがFocus 25よ。彼らは自分が霊界にいることを知っている。だけどその価値観を手放せない。科学、カネ、健康、若さ——それが彼らの神であり、牢獄なんだ」

 俺は歯を食いしばり、わざと大きく歩幅を乱した。

 その瞬間、周囲の完璧な同期がわずかに乱れた。

 彼女が夜空に指を突き立てた。小さな穴が開き、赤く震える縁の向こうに穏やかなパークが見えた。Focus 27のレセプションセンター——境涯に応じてガイドが慈悲で作る方便の空間。

 そこから、光線と共にゆっくりと降りてきたのは、彼らが最も欲しがる価値観そのものを翻訳した光の柱だった。

 彼女は静かに言った。

「これが餌。彼らが信じている価値観そのものよ。27の本質は自由。でも彼らを直接連れていくことはできない。まずこの方便で安心させて、賑やかなレセプションセンターに誘うしかない」

 光の柱が俺の身体を包み込んだ。腰の痛みと左手の痺れが一瞬だけ溶けるような錯覚。還暦の身体が若返るような、甘美な安心感。

 穴はゆっくり閉まり始めたが、完全に塞がることはなかった。

 意識が現実に戻る。

 俺はベッドから起き上がり、窓を開けた。外の桜はまだ三割ほど。腰が痛い。左手が痺れる。鏡の中の自分は相変わらず情けない親父だ。

 しかし胸の奥の重りが落ちていた。科学やカネや健康という価値観が、妙に遠く、軽いものに感じられる。

 そのとき、電話が鳴った。

 タウン市からだった。短編小説の依頼だという。報酬は決して高くない。

 俺は少し考えて、了承した。

 掌に残る光の残像が、微かに温かかった。

 火は確かに増えている。

 でも俺は、まだ遅れたまま、ここに立っている。

 Focus 27の賑やかなレセプションセンターへ続く道は、痛みと滑稽さの中で、確かに始まっている。

 この朝も、続いている。


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