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1 歩幅の正体 さくら序品


 息を吐くと白かった。

 還暦を過ぎた俺の吐息は、円山の朝の冷気の中で一瞬だけ形を保ち、すぐに淡く溶けていく。首の後ろのたるんだ肉が重く垂れ下がり、歩くたびに左膝の奥が鈍く響く。皮膚の表面だけはアンチエイジングで張りを保とうとしているが、身体の芯は確実に老いを告げていた。指先が冷え、吸い込む空気が肺の奥を刺す。歩幅が世界と半拍ずれている気がして、影が遅れてついてくるような感覚が、ここ数年ずっと離れなかった。

 市場の前を通ると、油の匂いが鼻の奥を鋭く刺した。コロッケを包んだ熱い油紙が指に貼りつき、じんわりと熱が染み込んでくる。事務所に着けば、美咲が淹れたコーヒーの湯気がゆっくり立ち上り、窓から差し込む朝の光がその湯気に金色の揺らぎを与える。相談者が来れば、俺は適当な笑顔を貼り付けて相槌を打ち、AIが作った書類に最終確認の判を押す。それが、今の俺の日常だった。

 夜になると、日中の重さとは別の“沈み”が訪れた。

 布団に入っても眠れない日が続いていた。身体は疲れているのに、意識だけがどこかへ浮いていく。左膝の奥が、昼間よりも強く疼いた。

 天井を見つめていると、胸の奥でざらつくような違和感が広がった。

 何かを忘れている気がした。

 最近、夜になると法華経を開く癖がついていた。如来神力品の「光が十方世界を照らす」という一節を何度も読み返すが、ただの文字の羅列にしか感じられない。悟りとは程遠い、老いた男の徒労に思えた。だから今夜は、いつものようにイヤホンを手に取った。ヘミシンクの低く重いビートが、せめてこの沈みを少しだけ深くしてくれればいい——そう思った。

 Focus 15。

 世界が溶けた。

 次の瞬間、俺は円山に立っていた。しかし、そこは俺が毎朝歩いている円山ではなかった。

 空気が重く、密度が高い。街灯の光が細かな粒子となって舞い上がり、すべての輪郭が淡く発光している。桜の蕾は固いままなのに、内側から薄い炎のような光を湛えていた。足元の舗道は冷たいはずなのに、ほんのり温かい。風が頰を撫でる感触が、いつもより少し遅れて届く。影が半拍遅れてついてくる。

 俺はゆっくりと歩き始めた。足音が、いつもより少しだけ遅れて聞こえる。

 そのとき、数十メートル先の街灯の下に、一人の女性が立っていた。

 息が止まった。

 彼女は、息を呑むほどに美しかった。黒髪を一つにまとめ、白いブラウスに細いデニム、真っ白なスニーカー。その白さが、この世界の光を柔らかく跳ね返している。一本だけ耳の横でほつれた髪が銀色に光り、夜風に揺れるたびに淡い光の粒を散らしていた。

 彼女はゆっくりと屈み、スニーカーの紐を結び始めた。一度結び、少し考えるように指を止め、もう一度結び直した。その仕草に、わずかな迷いの影が差した。

 立ち上がった彼女の輪郭が、一瞬だけ光の粒子のように揺らぎ、すぐに静かに形を整えた。

 俺は声も出せずに立ち尽くしていた。

 彼女は静かに歩み寄り、俺の目の前に立った。整った顔立ちの奥に、静かな力強さと、どこか疲れた影が同居していた。

 「……ようやく、来ましたね」

 声は穏やかで、しかし芯があった。

 「……ここは、どこだ?」

 「あなたの意識が創った、もう一つの円山です。

 法華経の光を、ずっと求めていたんですね。文字だけでは届かなかった」

 彼女は一度だけ視線を落とした。その落とし方が、何かを思い出すのを避けているように見えた。

 俺は横に並んだ彼女と歩き始めた。肩が触れ合う距離。彼女の体温が、わずかに伝わってきた。

 やがて道の先に、光の門のようなものが現れた。彼女はためらいを見せず、その中へ歩みを進めた。俺も後に続いた。

 光を抜けた瞬間、熱気が全身を叩いた。

 灼熱の風が顔面を焼く。空気は湿気を帯びて重く、肺に入るたびに熱い塊が胸の奥に落ちる。額から汗が一気に噴き出し、目に入って視界が滲む。背中を伝う汗がシャツを肌に貼り付け、首筋を冷たい線になって流れ落ちる瞬間があったが、すぐにまた熱くなる。

 ここはインドの大地だった。

 しかし、地名としてのインドではない。世界の輪郭が熱で溶け、現実と経典の境界が曖昧になった場所。法華経の序品が、現実の上に薄い膜のように重なっている。

 赤土の地面は太陽に焼かれ、空気は揺らぎ、遠くの景色は蜃気楼のように歪んで見えた。裸足の子どもたちが砂埃を上げて走り、牛がゆっくりと影のない道を歩いていく。空はどこまでも青く、太陽は容赦なく照りつけていた。

 彼女は俺の隣に立っていた。白いブラウスの襟元が汗で濡れ、胸元が上下している。銀色の髪が熱風に揺れ、頬に張りついた一筋が光を反射していた。その横顔は、強さと脆さが同じ比率で混ざり合っていた。

 広大な境内の中心に、一人の男がただ座っていた。

 ただ座っているだけだった。

 しかしその存在は圧倒的だった。全身から放たれる光は強烈で、俺は思わず目を細め、息を詰めた。光の熱が肌を焼き、胸の奥まで重く染み込んでくる。大地がゆっくり震え、空から色とりどりの花弁がゆっくりと舞い落ちている。その落下速度が、現実より半拍遅い。その遅れが、俺の鼓動と奇妙に同期していた。

 沈黙が、物理的な圧として胸にのしかかる。

 彼女が俺のすぐ横に立ち、耳元で静かに囁いた。彼女の息も熱く、少し乱れていた。

 「……あの方が、ブッダです」

 その声は、どこか掠れていた。

 ブッダは何も言葉を発していなかった。ただそこにいるだけで、世界全体が光でつながったように感じられた。

 俺の歩幅は、まだ半拍遅れたままだった。胸の奥が熱く、震えていた。汗と熱い滴が頰を伝うのがわかった。

 そのとき、彼女が俺の手を握った。

 その温度は、熱風の熱とは違った。もっと柔らかく、もっと深く、もっと“人の体温”として胸の奥に染み込んでくる。

 「……あなたが、こんなふうに手を握り返してくれるとは思いませんでした」

 彼女は俯きながら言った。

 「いつも、あなたは一歩だけ距離を置いていたから」

 俺は息を吸った。熱い空気が肺に入り、喉を焼く。

 「距離を置いていたのは、あなたのせいじゃない。俺が、怖かったんだ。この世界も、ブッダも、そして……あなたも」

 彼女は驚いたように目を見開いた。

 「私が……怖かった?」

 「あなたは、いつも先に知っているように見えた。俺よりも遠くを見て、俺よりも深く理解して、俺よりもずっと強いように見えた。だから……触れたら、俺の弱さが全部見透かされる気がして」

 俺は続けた。言葉が、熱風の中で自然にこぼれ落ちた。

 「還暦を過ぎて、残り少ない時間を誰かと分かち合ったら、死ぬときに全部失う気がした。美咲にだって、ただ適当な笑顔を貼り付けているだけだった。触れたら、全部崩れてしまうと思った」

 彼女は小さく息を吐いた。その息は熱風よりも熱く、しかし震えていた。

 「……そんなふうに思われていたなんて、知らなかった」

 彼女は俺の手を握り直した。その指先は、さっきよりも確かな力を持っていた。

 「じゃあ……私も言いますね。

 私があなたを選んだ理由を」

 熱風が一瞬止まり、世界が静かになった。

 「あなたが強かったからじゃありません。あなたが、弱かったからです」

 胸の奥が揺れた。

 「初めてあなたを見たとき、あなたの中に“触れられたくない傷”があるのがわかりました。その傷は、私の傷と同じ形をしていた」

 彼女は視線を落とし、握った手に親指を添えた。

 「昔、私が導いた人がいました。でも、その人は途中で立ち止まってしまった。私は、その人を支える力がなかった。その人は……戻ってこなかった」

 彼女の声が震えた。

 「だから、あなたを見たとき……怖かったんです。あなたも、あの人と同じように消えてしまうんじゃないかって。でも、それでも……あなたの弱さに触れた瞬間、私はあなたの隣にいたいと思ってしまった」

 胸の奥が熱くなった。

 「……俺も、同じだ」

 「俺も、ずっと弱かった。誰にも触れられたくなくて、誰にも見られたくなくて……でも、本当は誰かに気づいてほしかった」

 彼女はゆっくりと顔を上げた。

 「気づいてますよ。ずっと前から」

 その瞬間、胸の奥で何かが崩れた。熱風のせいではない。ブッダの沈黙のせいでもない。俺自身の中にあった、固く閉ざされた何かが、ゆっくりと溶けていく感覚だった。

 ブッダの周囲の光がわずかに揺れた。まるで、俺たちの変化に呼応するように。

 大地の震えが深くなり、空の花弁が渦を巻き始める。熱風が唸り、光が脈動し、世界そのものが息をしているようだった。

 彼女は俺の手を握ったまま、囁くように言った。

 「……見えますか? 世界が、動き始めています」

 俺は頷いた。胸の奥で、何かが確かに目覚めていた。

 彼女は俺の手を握ったまま、静かに微笑んだ。

 その手の温度は、熱風よりも熱く、しかし決して焼けなかった。

 俺はゆっくりと息を吐いた。

 白くはなかった。

 この世界の空気は、ただ優しく肺の奥まで染み込んでいった。

 歩幅が、もう半拍遅れていなかった。

 彼女の足音と、俺の足音が、初めて同じリズムで響いていた。

 ブッダの光が、静かに、しかし確かに脈打っていた。

 この世界は、まだ始まったばかりだった。

 そして俺たちもまた、始まったばかりだった。





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