第三話
支度を終えて、隆はいつもの電車に乗った。休日の昼間の電車は普段とは違った種類の乗客が多い。これから遊びに行くのだろうという楽しそうな人々を眺めながら、隆は座席に座った。隣の家族連れのはしゃぐ声が聞こえる。
三宮は職場があるのもあって、隆にとっては馴染みのあるエリアだ。学生時代にもよく訪れた。地方から大学進学のためにやってきた同級生や、当時付き合っていた女性と、北野の風見鶏の館のような観光スポットにも行ったことがある。
大正時代に建てられた古い洋風建築は北野のあちこちにあって、その時代の名残を今に伝えている。隆はドラマに出てくるような洒落た建物や調度品を感心して眺めたが、当時の交際相手は阪神間で育ったこともあって割合見慣れているらしかった。
隆は元町駅で降車して、神戸港に向かって歩いた。初めて訪れた頃から街や高架下の雰囲気は大きく変わらないが、店舗はいくつも入れ替わっている。知っているつもりで歩くと案外迷う。平日にそれほど街中をうろうろしないのもあるのだろう。会社周辺のランチ店の情報には詳しくなった。
隆は神戸港に建つ神戸ポートタワーを目印にして歩く。真ん中のくびれた赤い塔は、神戸というと真っ先に思い出すような名所でよく目立つ。隆がテレビをつけっぱなしにして眠ってしまった深夜にふと起きると、映っていることがある。
神戸ポートタワーのあるメリケンパークに近付くごとに、潮風の匂いが濃くなってくる。この周辺は独特な形の建物が多く、神戸のガイドブックでもよく表紙になる。
隆は港に着いて、ぼんやりと海を眺めた。海上に浮かぶ大きなホテルの向こうに、船が浮かんでいるのが見えた。桟橋には強い海風が吹いていて、すれ違った観光客がスカートを押さえている。
隆は海を眺めながら、行き来する船をよく観察した。大きな客船だから父の漁船とは全く違うが、スクリューはどこにあるのかと目を凝らした。昨日作った模型のように、おそらく船尾にあるのだろう。
隆は就職してから会社と家を往復するような暮らしを送ってきたが、案外身近なところに知らないことがあるものだ。模型を作ったのも子供の頃以来だった。三宮に模型を取り扱う店があることも知らなかったし、漁船の模型があることも初めて知った。竹串や割り箸、布を見て、「灯篭船に使えそうだ」と考えたことも、初めてだった。
──これは親父の忘れ形見みたいなもんかもしれへんな。
隆はいつの間にか、好奇心を持つことをやめていた自分に気が付いた。以前の隆なら、港で船を見ても「船がある」としか思わなかっただろう。子供の頃はこうではなかった気がする。一体どこで変わってしまったのだろう。顔を上げて目を向けさえすれば、広い世界があったのに。
灯篭船作りは、隆の目を久しぶりに外へ──まだ知らない世界へと向けた。
隆の目の前で、大きな客船が汽笛を鳴らした。管楽器のように、辺りを低く揺るがす音だった。海鳥が何羽か風に乗って飛んでいる。
──拓は、ああいう船を作っとるんかもしれんな。
隆は今さら、大型船と父の漁船の違いを痛感する。灯篭船の設計図を起こす拓は、きっと苦労しているだろう。船の舳先や側面も、かなり違うのではないか。
それでも文句を言わずに設計図を作っている拓に、隆は胸の内で感謝した。仁も父の漁船の画像を送るなど、協力している。長男である隆が何もしない訳にはいかない。灯篭船の素材をあれこれと考えながら、隆は港をあとにした。
駅へと戻る道で、ポケットティッシュを手渡された。隆はティッシュなら使うしな……と受け取って、裏の広告面をなんとはなしに見た。猫カフェの広告だ。
商業施設の喫煙所で煙草を吸いながら、隆はじっとポケットティッシュの広告を眺めた。猫のシルエットと、店名が書いてある。料金表はカラオケボックスのものに似ている。
──猫カフェには、行ったことないな。
猫なら佐柳島でたくさん見かけたが、神戸での日々の生活で猫を見かけることはあまりない。ふと思い立って、立ち寄ってみることにした。今日の隆には特に予定がないし、案外ここにも知らない世界が広がっているかもしれない。
駅近くの商業ビルの中に、猫カフェはあった。エレベーターに乗って猫カフェに着くと、受付でさまざまな注意事項を聞かされた。店内で走ったり騒いだりしないだとか、出入りするときは猫が出ないように気をつけるだとか、料金やワンドリンク制だとか、猫におやつをあげたいときの注意事項などだ。
隆はスリッパに履き替えて、ドアをそっと横に引いた。店内にはさまざまな猫がいた。キャットタワーの上でじっとしている猫、客の膝の上でくつろいでいる猫、おもちゃに飛びかかっている猫、水を飲んでいる猫……。隆はどうしていいかわからずに、ひとまずソファーに座った。
毛の長い大きな猫がのしのしとやってきて、じっと隆に見入る。隆も猫を正面から見据えて動かない。父の葬式に乱入してきた猫とは、また違う太々しさだ。
──案外おふくろの生まれ変わりかもしれへんで。
父の葬儀の日、隆は自分が弟たちにそう言ったことを思い出した。
誰かの生まれ変わりでないことなど、わかっている。この猫は佐柳島とは縁のない猫だし、ただ隆を気にしているだけだろう。もしも本当に生まれ変わりがあったとしても、神戸に縁のある猫だ。
けれども猫の大きな瞳に見つめられていると、不思議と見知った存在のような気がして、隆はそっと猫に手を伸ばした。
猫はにゃーんと一声鳴くと、隆の手に頭を擦り付けて、去っていった。
──なんや。挨拶に来ただけか。
猫の後ろ姿を見送る隆の胸に、寂しさが去来する。宙に浮いたままの手をそっと膝に戻して、隆は自分にこんなに感傷的な一面があったのかと内心驚いた。
父が亡くなるまで、この手の感情をあまり持った記憶はなかった。学生時代に交際していた恋人とも、まるで目的地が違っただけのように、あっさりと別れた。喧嘩をした記憶もない。
隆は結局紅茶を一杯注文し、猫が好きにしているのを眺めた。猫たちは店内を好きなように歩き回っている。本棚に猫の出てくる漫画が置いてある。隆はその中の一冊を選んで、ぱらぱらとめくる。おもちゃで猫を運動させて遊んでいた男性が、驚いたように隆を見た。
そうこうするうちに、時間が来た。隆が会計するときに、店員はにこやかに「お気に入りの猫ちゃんはいましたかー?」と尋ねた。返答に窮した隆は、「毛の長い、大きな猫」と返す。挨拶に来てくれた猫だ。
「あー、ハナちゃんですね。あの子、お客さんが来たら挨拶しに来てくれるんですよ。人懐っこいですよねー」
隆が店員に曖昧にうなずくと、「また来てくださいねー!」と爽やかに送り出された。
猫カフェから出ると、サイレントモードにしていたスマホがぶるぶると震えた。拓からだ。灯篭船の設計図ができたという知らせだった。
隆は急いで添付されていた画像を拡大して、材料をあれこれと想像する。竹串と割り箸、大漁旗に使う布は買ってある。投網は少し太めの刺繍糸などで作れるだろうか。子供の頃に網の修繕を手伝ったことはあるが、かなり昔のことだから心許ない。
──きっと仁が知っとるやろ。
島に残って漁師をしている仁なら、お茶の子さいさいだろう。
隆は兄弟三人のグループメッセージに「ありがとう。お疲れさん」と打ち込んだ。打ち込んでいる最中に、仁から「えっ、すご! まっこと親父の船じゃ! もうはや出来たんか!」と喜ぶメッセージが送られてきた。
続けて拓が「作るのはこれからじゃろうが。船の木材じゃけど、くり抜いた方がいいかもしれんて、職場の設計部の人が言うとった」と付け加える。
しばらくそのやりとりを見ていた隆は腕まくりをして、ズボンのポケットにスマホをしまった。
──次は、俺の番やな。
隆は、まずは木材を買おうと、近くの店を検索した。全国的に有名なクラフト店が表示される。そこならば、多少変わった形の木材もあるかもしれない。木材を加工するとなると工具が必要だが、これはおそらく佐柳島の実家にあるだろう。船大工だった父の専用の道具でもあるから、使いこなせるかはわからないが、兄弟が三人いれば誰かしらが知っているはずだ。
隆は先ほどまでとは打って変わって軽やかな足取りで、エレベーターに乗り込むと、ボタンを押した。
エレベーターの窓から見える神戸の景色が、傾きはじめた日の色に染まっている。オレンジ色の太陽が海を染めて、ゆらめく波のきらめきがまばゆかった。




