第二話
雨が降った。仁はラジオの天気予報を聞きながら投網の修理をしていた手を止めて、窓の外を見た。
激しく降りしきる雨が窓ガラスに当たって流れ落ちていく。しばらくは止みそうにない。子猫をくわえた親猫が駆け足で庭を横切って、縁側の下に潜り込んだ。この雨では難儀しただろうと、仁はガラス戸の奥を覗き込む。
今日の漁は休みだ。小雨程度なら出航することもあるが、これほど雨風が強いなら、海も荒れて時化ているだろう。
仁は父の仏壇のある部屋で投網を手繰り寄せながら、破れた箇所を編み直した。よほど活きのいい魚がかかって暴れ、穴が空いたようだ。
「こちらは高知県の室戸岬です!」
ラジオの天気予報で、レポーターらしき女性が叫んでいる。びゅうびゅうと風の音がして、現地からの中継が聞こえにくい。
四国にはよく台風が来るが、ときには佐柳島にもその影響が及ぶ。高知県はかなり多くの台風が来るから、よく中継現場に選ばれている。外海に面した高知県のある街では、かなり背の高い防波堤もあると聞く。
四国には山が多く、上陸した台風の勢力が弱まることもある。しかし大型ともなるとそうはいかない。台風の端は雨風が強いし、島ともなれば周りは海だから、大時化になる。
仁は膝に乗せていた投網を退けて、段ボールの空き箱を用意した。そろそろ雨戸を閉めた方がよさそうだ。ついでに縁側に避難してきた猫の親子に、段ボールとちりめんじゃこをやろう。
身体も冷えているだろうから、タオルも必要だろうか。けれども使い古したタオルが見つからず、結局仁は捨てようとしていた穴の空いたTシャツを丸めたものと、小皿に乗せたちりめんじゃこを段ボールに入れた。
雨合羽を着て、縁側に回る。猫たちを刺激しないようにそっと段ボールを差し込み、雨戸を閉めて家に戻った。
風が吹くたびに雨の向きが変わるのか、雨戸を叩く音が変わる。仁はあぐらをかいた膝の上に再び投網を乗せて、修繕を続けた。
──時化てるときは、投網を直すんじゃ。
亡くなった父の言葉が頭をよぎる。仁が大人になって仕事を手伝うようになってから、投網の修理は仁の役目になり、父は時化の日には酒を飲んでいた。二人で修理した方が早いじゃろと、内心不満を持ったこともある。
庭に面した内廊下に、籐でできた椅子がある。三人兄弟が喜寿の祝いで父に贈った椅子だ。歳をとってからの父は、よくその椅子に座って庭に来る猫を眺めていた。
──親父じゃったら、どうしたかなぁ。
縁側の下でごそごそと動く気配に耳を澄ませながら、仁は投網を手繰り寄せた。まだ雨は止みそうにない。父なら意外と家の中に迎え入れたかもしれないが、今となっては定かでない。
仁は仏壇に置いた真新しい父の写真にちらりと視線を送るが、当然答えはなかった。
電気がちかちかと揺らいで、風の強さを伝えている。仁は投網の修繕を終えると、さっさと床についた。
翌朝は晴れていた。仁が眠っている間に、台風は温帯低気圧に変わったらしい。仁はのそのそと布団から出ると、カーテンと雨戸を開けた。眩しい朝の日差しを受けて雨の雫が輝いている。
仁はサンダルにたまっていた水を流すと、縁側から庭に出た。そっと縁側の下を覗くと、段ボールの中でごそごそと動く猫たちが見えた。外に出ようとする子猫を、親猫が毛繕いしている。
──よかった。気に入ってくれたんじゃな。
立ち上がって空を眺める仁の頭に、電線に乗っていた雨の雫がぽたりと落ちた。
仁はそのまま漁船の様子を見るために、船着場へと向かった。
桟橋のボラードに、ロープがしっかりと巻きついている。波はまだ少しあるようで漁船が上下に揺れているが、どこかにぶつけて破損したということはなさそうだった。
そのまま畑に向かい、野菜の様子を見る。多少横に倒れている葉物もあるが、概ね問題ないようだ。横に倒れている葉物を土から抜いて、仁は家に戻った。ついでに洗濯機を回す。
米は昨日炊いたものが残っている。仁は鍋で湯を沸かして、流し台で葉物をていねいに洗って切る。湯が沸いたところで、顆粒だしと葉物を鍋に入れ、煮立ったところで味噌を加えて火を止めた。
フライパンに卵を割って目玉焼きを作る横で、大根おろしを作る。大根おろしはちりめんじゃこと和えて小皿に盛った。
仁は茶碗にご飯、お椀に味噌汁をよそって、居間に持っていく。大根おろしとちりめんじゃこの和え物、目玉焼きも忘れない。
「いただきます」
朝食を食べながら、仁はラジオを点けた。まだ一人の朝食には慣れない。つい最近までは父がいた。朝のニュースで台風について話しているのを聞きながら、味噌汁を飲む。
先ほどの感じだと、海はまだ波がある。しかし沖の浮きが流されていないか、確かめた方がよさそうだ。蛸壺は回収しているが、浮きの方はそのままだから、どうなっているかわからない。
洗濯機の回る音を聞きながら、仁は漁船のスクリューを思い出す。
──スクリューがちゃんと動くか、見ないかん。
流れ着いた海藻が絡まることもあるし、エンジンの調子が悪くなることもある。
仁は朝食を食べ終えると「ごちそうさま」と手を合わせて、食器を片付けた。生ゴミをまとめて家を出ると、裏の畑に向かう。畑の脇に置いたコンポストに入れ、スコップでかき混ぜた。
佐柳島にはゴミの処理施設がない。屎尿も含めて定期的に本土へのフェリーで運び出しているくらいだから、仁は生ゴミを極力コンポストで堆肥にして、畑に使っている。各家庭によって対応はさまざまだが、燃やせるゴミは焚き火で焼くという家もある。焚き火で出た灰は、やはり畑の肥料にする。
──一人暮らしになって、生ゴミも減ったな。
仁はコンポストの中の卵の殻を砕きながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
洗濯機が止まったことを知らせるピーッという音が聞こえてきて、仁は家に戻る。洗濯カゴに洗濯物を入れると、庭に出た。昨夜地面に置いた物干し竿を、物干し台に引っかける。肩にぶら下げていたタオルで物干し竿を拭って、次々と洗濯物を干した。
いい天気だ。モンキチョウがふらふらと飛んでいる。縁側の下から子猫が飛び出してきて、蝶々にじゃれついた。ゆっくりと出てきた親猫が、寝そべってその様子を眺めていた。
「昨日は災難じゃったね」
仁はゆっくりとしゃがみこんで、親猫と目を合わせた。この島の猫は人懐っこいが、子猫を連れているからか、警戒しているようだった。
子猫がモンキチョウを追って、物干し台に上る。遊びたい盛りなのだろう。仁が子猫の首元をつかんで下ろすと、親猫が鼻の頭にシワを寄せて、シャーッと牙を剥いた。子猫の方はきょとんとしている。まだ毛並みがふわふわとした、目の青い子猫だ。
「ごめんて。でも洗濯物をせっかく干したんじゃ。ひっくり返されとうない」
親猫は鋭い目つきで仁を一睨みすると、子猫の毛繕いを念入りにした。首周りの毛を丹念に舐めている。
「俺がさっきつまんだとこじゃ。ちょっと傷つく……」
縁側の下に入れた段ボールに、小皿が入っている。ちりめんじゃこは、すっかり平らげられていた。
仁は家に戻って手を洗うと、空のクーラーボックスを持って船着場へと向かう。桟橋のボラードに巻きついたロープを外して漁船に飛び乗ると、船がわずかに傾いた。仁は慣れたもので、船尾に行ってスクリューの様子を見る。危惧していた海藻などは絡まっていないようだ。
機関室に入って鍵を差し込むと、ブロロロ……とエンジンの振動と音が続いて、漁船がゆっくりと海に漕ぎ出す。大漁旗が潮風に乗って、ばたばたとはためいている。漁船は波を飛び越えるように、ときおり小さくバウンドして海を進んでいった。
隣の小島が見える。人はたまに訪れるが、そこに住んでいる人はいない無人島だ。バサバサと海鳥が羽ばたくのを視界の端にとらえながら、仁は沖にある浮きに漁船を近付けた。流されてはいなかったようだが、旗が少し傾いている。
仁は船のエンジンを止め、機関室を出ると、浮きに突き立った旗を直した。漁船の甲板に乗せていたカゴを引き寄せて、浮きにロープを結びつけ、蛸壺を沈めていく。とぷん……とぷん……と、蛸壺が海の中に沈む音がする。
今回は台風が来る前に蛸壺を回収できたが、もしもできなければ、海の中で蛸壺が割れてしまったかもしれない。現代の不安定な漁師の稼ぎで、経費が増えることはできるだけ避けたい。
──天気予報様々じゃ。
仁は蛸壺を沈め終えると、肩にぶら下げていたタオルで汗を拭った。昨日の嵐が嘘のように、空は晴れ渡っている。しかし海にはまだ波があり、ほんの少し濁っていて、いつもより漂流物が多い。
仁は蛸壺の入っていたカゴを片付けて、ゆっくりと蠢く海を眺めた。日の光を反射する波が、まるで生き物の鱗のようだった。




