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舟送り  作者: 網笠せい
第四章 香川県多度津町佐柳島 2
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第一話

 三兄弟の真ん中、仁は、香川県多度津町佐柳島で、漁師をしている。鯵などの刺し網漁や、鯛などの一本釣り、蛸壺漁が主である。昔は漁場も豊かだったというが、赤潮などの被害が相次いだ時期があり、漁獲量は年々減少し、瀬戸内海の漁業関係者の悩みの種となっていた。


「……また少ない」


 父の遺した漁船の上で、仁は網を引き上げながら、ぽつりと呟いた。仁や父を含む佐柳島の漁師たちも、例外なく漁獲量減少の影響を受けている。


 自然相手の商売だから、海が荒れているときには出航しない。漁船を動かすためのガソリン価格は年々高騰していたし、高齢化や過疎化も相まって、佐柳島では漁師をやめて他の職業に就く人たちもいる。


 商売としてやっていくには些か不安が残るのを、仁は肌で受け止めている。収入は不安定だし、経費はかかる。漁船の故障を機に漁師をやめてしまう島民の気持ちも、わからなくはない。


 今日の海は穏やかだ。寄せては返す波の音は、聞き慣れていても心地いい。仁は網に頭を突っ込んだ鯵を、甲板に置いたカゴの中に一匹ずつ放り込んでいった。


 背びれや胸びれが網に引っかかって出られなくなった魚たちが、網の中でピチピチと勢いよく跳ねている。仁は佐柳島の本浦港にいくつかの鯵のカゴを水揚げした後、再び漁船に乗り込んだ。


 ──この暑さなら、急いだ方がよさそうじゃ。


 仁は先ほど港でもらった氷を手早くカゴの上に乗せて、鯵を冷やしながら隣の高見島の港に向かう。


 漁船のエンジンを回すと、スクリューが勢いよく回転して、海水を泡立てた。


 海原の向こうに高見島の港が見える。漁船は波のうねりに乗って上下しながら、だんだんと港に近付いていった。


 仁は漁船を高見島の港につけて、残りのカゴを船から下ろした。漁協で働く人々が魚の大きさやカゴの重さを測って、バインダーの上の書類に記録する。カゴを手にしながら、仁は固唾を飲んでその作業を見守った。鯵がピチピチと跳ねて、海水が飛んだ。


 書類を受け取って、仁はそのまま漁協の事務所に顔を出す。


「こんにちはー」

「おう、お疲れさん」


 漁協の事務員に湿気でふやけた書類を渡すと、事務員は老眼なのか、眼鏡を外して書類を少し遠くから見つめた。目をしぱしぱさせている。


 ややあって、事務員が電卓を弾き、茶色の封筒にお金を入れる。もう何十年もそうしているのだろう、流れるような手つきだ。


「はいよ」

「……やっぱり、少ないよなぁ」

「最近はねぇ。……仁くんは、養殖とかせんの?」

「養殖ねぇ。島でできるじゃろか」

「海に浮きで生け簀作っとる人もおるがよ」

「うーん……考えとく。ありがとうね」


 仁は漁協の事務所を出て、自分の船に戻った。エンジンを動かすと、ゆっくりと漁船が海へと滑り出す。お礼を示す汽笛を鳴らすと、漁協で働く人々が港で手を振った。


 穏やかな海を、父と仁の漁船が佐柳島へと向けて進んでいく。仁は機関室からひょいと顔を出し、

潮風を受けながら海面を見つめる。旗のついた浮きが、上下している。仁は浮きに漁船を近付けると、エンジンを一度止めた。


 甲板に蛸壺の入ったカゴを出して、浮きに結びつける。蛸壺をいくつも海に沈めながら、仁は額に滲む汗を拭った。潮風にべたつく肌に、ざりっとした感覚がある。海水が乾いて結晶化していた。


 蛸壺をすっかり沈め終えると、仁は再び漁船のエンジンを動かす。ゆるやかな波に乗りながら、漁船は佐柳島の船着場へと着いた。


 エンジンを切って、仁は甲板に巻いておいたロープを手に取る。桟橋にひょいと飛び移ると、ボラードにロープをぐるぐると巻いて、漁船を係留した。もう何千回としてきた作業だ。


 ボラードを見ると、仁は父がそこに足を乗せて海を眺めていたのを思い出す。「何しとるん」と尋ねる仁に、父は照れくさそうに笑うと「昔、映画でな、こういうシーンがあったんじゃ」と答えた。


 仁はボラードに、そっと足を乗せてみる。意外とつるつるとして、安定しない。ボラードには様々な形があるから、父が見たという映画とは、きっと形が違うのだろう。


 遠くで観光客がキャッキャと笑う声がして、仁はあわてて足を下ろした。漁船に飛び移って、家で食べるための魚が数匹入ったクーラーボックスを肩から提げ、桟橋に下りる。


「こんにちは」

「こんにちはー」


 観光客は仁を見ると挨拶をして、すぐに猫に視線を戻した。往来のど真ん中で寝そべっていた猫は、仁をじっと見つめてゆっくりと目を細め、喉をゴロゴロと鳴らした。魚の匂いがしたのかもしれない。


 観光客がカメラを構える横を通り過ぎて、仁は畑に寄った。自宅の傍にある小さな畑にはいくつかの野菜が植えてあり、朝と夕方に水を撒く。どれも家で食べるためのものだ。漁獲量が減ってきたとき、父が作った畑らしい。


 仁が近くにある水道の栓をひねると、地面に這わせた管から水がちょろちょろと飛び出した。青菜の上に雫が乗って、傾きはじめた日差しに輝いている。


 仁は畑から、今日食べる分の青菜を一束引き抜くと、水道の栓を閉めた。茂みから出てきた猫が、クーラーボックスに身体をこすりつけている。


「やらんぞ」


 仁は笑って猫の頭を撫で、クーラーボックスを再び肩に提げた。猫は仁の後をついて歩き、家の前で行儀よく座った。


「ただいまー」


 鍵を開けて実家の引き戸を開けながら、仁は靴を脱ぐ。廊下の板間が、長時間長靴を履いてふやけた足を受け止める。仁が台所で手を洗うと、一緒に入ってきた猫が、にゃーんと鳴いた。


 クーラーボックスを開ける前に、仁は冷蔵庫を開ける。中に入れておいたちりめんじゃこを取り出し、猫に振る舞っている間に、クーラーボックスを開ける。


「こっちにしとき」


 台所の流しに開けると、ザラザラザラと氷がぶつかる音がして、数匹の鯵が転がり出た。仁は鯵を手早く洗って袋に詰め、冷凍庫に入れた。海が荒れて漁に出られない日の夕食用だ。ちりめんじゃこを食べ終わった猫が、冷凍庫のドアをカリカリと引っかいた。


「すまんけど、それは俺の飯やき」


 猫はしばらく冷凍庫の前に座っていたが、仁が風呂に入る支度をしているのを見て、尻尾で床をぺちぺちと叩いた。耳がほんのり萎れている。


 給湯器の電源を入れて丸いボタンを押すと、カチカチカチ……ボッとガスの火がつく音がした。仁は浴槽をさっと流してお湯を張る。汗と潮で汚れた服を脱ぎ、洗濯機に入れ、入浴する。


 洗濯機が回る音を聞きながら、仁はざぶんと浴槽に浸かった。


 ──あとで網を直さんといかんな。


 先日漁船から持ち帰った投網が、数箇所破れて穴が空いていた。網はいくつかあるので差し当たって困ることはないが、修理しておくに越したことはない。


 仁はざぶんと浴槽に頭から浸かった。することが山積みだ。浴室のガラス戸の奥で、猫がうろうろとしているのが見えて、仁はくすくすと笑い声を出した。


「やらんからな」


 漁に出ることも、畑の世話をすることも、たまに猫とこうしたやりとりをすることも、仁にとっては何気ない島の日常だ。けれども、猫島……佐柳島に観光にやってくる人たちにとっては、きっとそうではないのだろう。


 ──きっと、普段そういうものがない暮らしを送ってる人らなんじゃろうな。


 島を出て暮らしたことがない仁にはあまり想像できないが、自然や動物に触れる機会の少ない、目まぐるしい日々を送っている人たちなのだろう。


 仁は神戸に住む兄の隆を思い出しながら浴槽を上がり、身体を洗った。


 風呂から上がって、仁は濡れた髪の毛をタオルで拭きながら、台所に立つ。米びつから二合の米を出し、炊飯器の釜に入れると、さっと水で洗い流した。米を研いだ白い水をボウルに入れておく。これはあとで畑に撒くものだ。米の栄養が含まれているから、畑の野菜がよく育つと聞いた。本当かどうか定かではないが、水道代の節約にもなるので、やらない理由は特にない。葉に米のとぎ汁がかかると色が変わってしまうから、葉物野菜には使わないけれど。


 洗い終わった米を炊飯器に入れて炊飯ボタンを押すと、仁は先ほど畑で収穫してきた青菜をていねいに洗った。農薬は使っているが、虫がついているかもしれない。ところどころ、青菜に虫食いの穴が空いていた。洗い終えた青菜を小さく刻み、冷蔵庫に入っていた薄揚げも刻む。


 仁はフライパンに薄くごま油を引くと、刻んだ青菜と薄揚げを入れた。酒と醤油を垂らし、こんがりとしたいい匂いがしてくるまで炒める。鼻先を漂う醤油の香りに満足して、仁は青菜と薄揚げの炒め物を皿に乗せる。


「もう一品欲しい」


 仁は冷蔵庫のフタを開けて、じっと考え込む。結局先ほど冷凍したばかりの鯵を、一匹焼くことにした。鯵の背骨に沿ってあるギザギザとしたぜいごを包丁で削ぎ落とし、軽く塩を振って焼く。


 ガス台のグリルがパチパチと音を立てはじめる。仁は冷蔵庫からよく冷えたビールを一本取り出し、一口飲む。


 父の仏壇のある部屋から、猫がじっと仁の様子を凝視していた。


「なんじゃ。おったんか」


 ピンと耳を立てて行儀よく座った猫に苦笑いして、仁はビールをもう一口飲んだ。


 ──変わり映えはせんけど、悪うない。


 グリルの中で、魚の脂がぱちんと弾ける音がした。

【参考資料】

映画『嵐を呼ぶ男』1957年公開

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