45・覚悟2
「……少し、俺の話を聞いてくれ」
その声は、かつて彼女を冷たく突き放した時の「兄」のものではなかった。それは、荒野を彷徨い、ようやく自分の名前を取り戻した一人の男――「ナガ」の響きを伴っていた。
「俺は、あの仮想世界の中で、イチという一人の少女に出会った。最初は、ただの偶然だった。でも、あいつと一緒にいる時間は、俺にとって何よりも代えがたいものになっていったんだ。話が合って、笑うタイミングが同じで。年が同じだと知った時は、柄にもなく運命なんて言葉を信じそうになった」
市香の指先が、シーツをぎゅっと握りしめる。
信也は、当時の幸福な記憶を慈しむように、言葉を紡ぎ続ける。
「不変の教会で、あいつと結婚を誓った時。俺は、これ以上ないってくらいの幸福に浸っていたんだ。画面の向こうにいる誰かが、俺の存在を全て受け入れてくれたような、そんな気がしていた。……本当に、幸せだったんだよ」
だが、その穏やかな語り口に、一筋の鋭い亀裂が入る。
「……だけど。そのイチの正体が、市香……お前だって知った時。俺の中に最初に湧き上がったのは、救いようのない嫌悪感だった。吐き気がするほど、最悪だと思ったよ。俺が心から愛し、守り抜こうと誓った『イチ』という聖域を、血の繋がった妹であるお前に……汚されたと感じたんだ」
残酷な、剥き出しの真実。
市香の肩が大きく跳ね、喉の奥で小さな喘鳴が漏れる。信也は、自分の吐き出した毒を誤魔化すことなく、そのまま彼女の横顔に突きつけた。
「お前を否定した。拒絶した。そうしないと、俺の中のイチが死んでしまうと思ったから。……でもな、市香。あの日、お前があの場所で、俺に狂った独白をした時。……あの絶望的な瞬間に、俺の心が先に思ったことは、実は拒絶じゃなかった」
信也は、胸の奥にある「緑と金」の色彩を、力強く引きずり出した。
「嬉しかったんだよ。……ゾッとするほど、歓喜が勝っちまったんだ。俺がすべての愛を注ぎ込んできたイチが、ついに実体を持ったんだって……お前のあの狂ったような瞳を見た時、俺の中に、消えることのない焔が灯った」
信也の言葉は、熱を帯び、加速していく。
「俺は、その焔を必死に消そうとした。冷たい言葉を浴びせて、理性という名の冷たい水をかけて、お前を傷つけることで自分を守ろうとした。……でも、無理だったんだよ。俺がいくら自分を殺そうとしても、俺の中の「ナガ」が、ずっと抵抗を続けていた。新緑のローブを翻して、黄金の杖を掲げて……俺に、イチを、市香を、愛することをやめるなと叫び続けていたんだ」
昨日、自分の部屋で彼女の震えを隣で感じたあの瞬間。
信也は、自分が何を求めていたのかを、魂の深い場所で理解したのだ。
「いつからか俺は、お前の中にイチの面影を感じて、それを必死に追いかけていた。……でも、今はもう違う。もう、この気持ちは、画面の向こうのイチだけに向けたものじゃない」
信也は、市香の細い肩に手を置いた。
逃げ場のない、至近距離。
彼女がゆっくりと顔を上げ、濡れた瞳で信也を見つめる。
「市香。……俺たちは、兄妹だ」
その言葉は、冷たく、重い。
この世界が定めた、絶対に越えてはならない「境界線」。
実の兄と妹。共有する血。同じ屋根の下で育った年月。
信也は、その逃れられない宿命を、あえて残酷なまでに明確な言葉にして、自分たちの間に突き立てた。
「法も、倫理も、世間も。母さんも、父さんも、誰もが、俺たちのことを間違いだと言うだろう。……ああ、そうだ。俺たちは、致命的に間違っているんだよ」
信也の瞳の奥で、鋭い光が爆ぜる。
それは、あらゆる正論を焼き尽くし、更地にしてでも進むと決めた者の「覚悟」だった。
「でも、それでも言わせてくれ。……俺は、お前を、世界一、愛している」
禁忌の言葉が、密閉された部屋の中に解き放たれた。
世界一、愛している。
その響きには、甘い恋慕だけでなく、共に地獄へ落ちることを厭わない、烈火のような情念が混じっていた。
兄としてではなく。ナガとしてでもなく。
ただ一人の、織田信也という男として。
「イチとしても、妹としても……目の前にいるお前を、愛しているんだ。……市香」
その瞬間、市香の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
彼女は信也の胸に顔を埋め、声にならない叫びを上げながら、彼のシャツを力任せに掴んだ。
信也は、その小さな、けれど熱い質量を、壊れないように、けれど二度と離さないという強い意志を込めて、抱きしめ返した。
窓の外。
江ノ電が、ガタン、ガタンと遠ざかっていく。
二人の影は、夕闇の中に溶け合い、一つの歪な、けれど美しい形を成していた。
地獄のような日常を焼き尽くした後に、新しい世界が、今ここから始まろうとしていた。
明日(日曜日)の夜19時20分に完結です。あと7話、ラストスパートに付き合ってください。高評価とかは、ここまで来たらせっかくなので、最後まで見てからにしてください。




