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44・覚悟

 江ノ島駅からの道のりを、信也は文字通り風のように駆け抜けた。


 肺が焼けつくような熱を帯び、胸の奥では緑のローブと黄金の杖が、脈動に合わせて激しく熱を放っている。


 家に着き、震える手で鍵を開ける。靴を脱ぎ捨てるその僅かな時間さえも、今の信也にとっては耐え難いロスだった。二階へと駆け上がり、自室のドアを開けるなり通学鞄を床へ放り込む。その足で、彼は吸い寄せられるように隣の部屋――市香の部屋の前へと立った。


 立ち止まった瞬間、激しく打ち鳴らされる心臓の音が耳の奥まで響いてきた。


「はぁ、はぁ……っ」


 深呼吸を繰り返すが、駆けた反動で乱れた息は一向に落ち着く気配を見せない。いや、落ち着くはずがなかった。これから自分は「彼女」と対峙しようとしているのだから。


 信也の耳の奥には、今もまだ、あの体育館裏で響いた二人の声が鮮烈に残っていた。


「レッツゴー!」


「ファイト!」


 風火の突き抜けるような明るさと、彩の厳しくも温かい叱咤。ゲームの中で何度も自分たちを救ってきたあのエモーションの残響が、今の信也にとっては何よりも確かな「バフ」となり、震える膝を支えていた。


 信也は、二人の声援を指先にまで込めるように拳を強く握りしめた。


 そして、意を決してドアをノブを叩いた。


 コン、コン。


 乾いた音が静かな廊下に響く。数秒の沈黙。それは永遠のようにも感じられたが、やがて扉の向こうから、記憶にあるよりもずっと低く、透き通った声が届いた。


「……入っていいよ」


 その一言は、彼女が今の信也を、ありのままの「ナガ」として受け入れていることの証明だった。と同時に、信也にとっては、もう二度と引き返せない場所へと自らの意思で足を踏み出さなければならないという、最後にして最大の「宣告」でもあった。


 信也はドアノブを回し、ゆっくりと扉を開けた。


「……邪魔、するぞ」


 一歩足を踏み入れた瞬間、鼻腔をくすぐったのは、微かな石鹸の香りと、今まで嗅いだことのない「女の子の部屋」特有の甘い匂いだった。


 視界に飛び込んできた風景に、信也は一瞬、言葉を失った。


 そこは、彼が最後に足を踏み入れた小学生の頃の記憶とは、似ても似つかない空間だった。


 壁際に並ぶ、自分の知らないキャラクターのぬいぐるみ。本棚に無造作に差し込まれた、読んだこともない少女漫画の背表紙。机の上に散らばった、色とりどりの文房具やアクセサリー。


 それらすべてが、信也に突きつけていた。


 自分が、この数年間、いかに市香のことを見ていなかったか。


「妹」という既成のレッテルで彼女を塗りつぶし、その内側で育まれていた一人の人間としての時間を、いかに無下に扱ってきたか。


(俺は……こいつのことを、何一つ知らなかったんだな)


 だが、不思議と嫌悪感はなかった。むしろ、その「未知」であるという事実に、救いのような感覚すら抱いていた。


 もし、彼女のすべてを知り尽くしていたら。もし、彼女が単なる「模範的な妹」のままであったなら。


 きっと、あの仮想世界での「ナガとイチ」という奇跡のような夫婦は誕生しなかった。お互いに何も知らない、真っ白な他人のふりをして出会えたからこそ、二人は魂の深い部分で結ばれ、誓い合うことができたのだ。


 信也の視線が、ベッドの上に座る市香へと向かった。


 彼女は、いつも髪を束ねていたあのシュシュを外していた。


 長く伸びた髪が肩に零れ、夕闇が迫る部屋の中でしっとりとした光沢を放っている。それは、信也が愛した「イチ」としての面影を、あえて自らの手で解き放った姿のように見えた。


「……突っ立ってないで、座りなよ」


 市香は信也の顔を見ないまま、ポツリと言った。


 彼女が細い指先で示したのは、自分が座っているベッドのすぐ隣――逃げ場のないほど至近距離の場所だった。


 信也は、吸い込まれるように一歩ずつ近づいた。


 ベッドの縁に腰を下ろすと、マットレスが沈み込み、隣に座る彼女の体温がじわりと伝わってきた。


 二人の間に、重く、濃密な沈黙が流れる。


 窓の外からは、遠くを走る江ノ電の走行音と、夕暮れを告げるカラスの鳴き声が聞こえてくる。


 信也は、隣に座る少女の横顔を見つめた。


 シュシュを外し、武装を解き、ただ一人の人間として自分を待っていた市香。


 緑のローブと黄金の杖が、胸から喉にせり上がり、今、これまでで最も強く熱を帯び、彼女に届けるべき「言葉」を求めて震えていた。


「市香……」


 信也の声が、沈黙の湖面に最初の波紋を投じる。


 地獄のような日常を焼き尽くし、新しい世界を創り出すための、二人だけの最終決戦が、今この静かな部屋の中で静かに幕を開けた。

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