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43・澱の正体2

「……あのオフ会の日。市香に、あんな狂った独白をされた時」


 信也の声は、体育館の壁に吸い込まれるように低く、けれど驚くほど明瞭に響いた。


 放課後の喧騒が遠のき、湿ったコンクリートの匂いだけが立ち込める。彩と風火は、息をすることさえ忘れたように、信也の口元を凝視していた。


「俺……言い表せないような幸福に浸ったんだ。心の底から、これでいいんだって思っちまったんだよ」


 その告白は、あまりにも純粋で、それゆえに毒を含んでいた。


 実の妹から、倫理も社会性もかなぐり捨てた情念をぶつけられ、絶望するのではなく「幸福」を感じた。その異常性を自ら暴き立てる信也の瞳には、かつての逃避の影はない。


「だけど。その幸福を、俺の中の『理性』っていう信号が、無理やり止めたんだ。……赤信号だ。止まれ。進むな。死んでも受け入れるな。兄妹が愛し合うなんて、結婚しようなんて、そんなの絶対に間違ってる。……そんな、極めて正しい論理が、俺の足を凍りつかせた」


 信也は自嘲気味に口角を上げた。その視線は、目の前の二人を通り越し、あの日、秋葉原の片隅で凍りついていた自分自身を見つめている。


「俺は、その信号に従った。従うしかなかったんだ。……それで、俺たちの時間は止まった。動けなくなった。……けどさ。身体は止まっていても、心だけはずっと、地獄みたいに動き続けていたんだよ。市香のことを、画面の向こうにいた『イチ』とは別人だと思い込もうとして……必死に自分を騙して、拒絶という水をかけ続けて。……でも、昨日、あいつの震えを隣で感じて、ようやく分かった」


 信也の喉が、熱く、激しく疼き出す。


 一晩かけて分離し、形を成そうとしていた「緑と金」の色彩が、彼の独白に呼応するようにして、劇的な変質を遂げた。


「イチは……紛れもなく、市香だったんだ。あいつがイチとして俺に注いでくれた献身も、俺がナガとしてあいつに誓った言葉も。全部、偽物なんかじゃなかった」


 その瞬間、信也の精神世界において、長らく彼を苦しめてきた「澱」が、確かな輪郭を持って結実した。


 それは、ゲーム「PMO」において、彼が長年身に纏ってきた「新緑のローブ」。


 そして、幾度となく窮地に陥るイチを癒し、支え、共に戦い抜くための手助けをしてきた、あの「黄金の杖」。


 それらが、幻想ではなく、確かな感覚を伴って信也の心の中に完成された。


 もう、喉を刺すような痛みはない。そこにあるのは、重厚な質量を持った「ナガ」としての誇りと、守るべきものを見据えた「信也」としての覚悟。二つの存在が、一滴の淀みもなく一つに溶け合った。


 完成された澱に、ついに名前がつく。


 それは、既存の辞書にある平坦な言葉を遥かに超越した、彼らだけの真実。


 信也は、その震える唇から、溢れ出しそうな「答え」を吐き出そうとした。


「……気がついたんだ。俺は、市香が……むぐっ!?」


 決定的な言葉が空気に触れる寸前。


 信也の視界が左右から遮られた。


 右からは彩の手が、左からは風火の手が、同時に、そして容赦なく信也の口を力任せに塞いだのだ。


「……むぐ、んぐっ……!」


「……バカ。それ以上は、今ここで、私たちに言うべきことじゃないわ」


 彩の声は、低く、けれどかつてないほど優しかった。彼女の瞳には、怒りではなく、戦場へ向かう友を見送るような清冽な意志が宿っている。


 風火もまた、顔を赤くしながら、けれど必死な形相で信也の口を抑え込み、首を大きく横に振った。


「そうだよ、織田! それを一番に聞かなきゃいけないのは、私たちじゃないでしょ!」


 二人は同時に手を離した。


 信也が呆然と立ち尽くす中、風火は地面に転がっていた信也の通学鞄を素早く拾い上げると、彼の胸元に力強く押し付けた。


「ほら、さっさと行きなさい! 今、この瞬間にも『あの子』は家で一人で震えてるんだから!」


 彩が、一歩身を引いて道を開ける。


 信也は鞄を抱きしめ、二人の顔を見た。


 かつては自分を監視し、裁く者だと思っていた二人。だが今は、背中を押してくれる、この上なく心強い戦友に見えた。


「……ああ。行ってくる」


 信也が駆け出した。


 湿った体育館裏を飛び出し、校門へ向かって、全力で地面を蹴る。


 背後から、風火の元気な声が響いた。


「レッツゴー!」


 振り返らなくても分かった。快活な彼女は今、ゲーム内で何度も見せてくれた、あの「出発」のエモーションと同じポーズを取っているはずだ。


 続いて、彩の凛とした声が追いかけてくる。


「ファイト!」


 きっと、クールな彼女は今、本当にごく稀に、パーティーを鼓舞するために発動させていた、あの「ガッツポーズ」のエモーションと同じポーズをしている。


 二人のポーズが、信也の視界の端で一瞬だけ残像となって揺れた。


「もっと速く走りなさい! 」


「私たちは、『ボス部屋』の前で待ってるね!」


 二人の叫びが、春の夕暮れの空に溶けていく。


 信也は、さらに加速した。


 もう、赤信号は見えなかった。


 理性も、論理も、世間体も。


 そんなものはすべて、この疾走の熱量で焼き尽くしてしまっていた。

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