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42・澱の正体

 放課後の体育館裏。校舎の影が長く伸び、湿り気を帯びたコンクリートの匂いが、春の終わりの熱を吸い取っていく。


 そこには、既に彩がいた。


 錆びた手すりに背を預け、腕を組んで信也を待っていた彼女の瞳は、いつも以上に鋭く、冷徹な光を放っていた。


「遅かったわね」


 彩の第一声は、歓迎とは程遠い、短く刺すようなものだった。その隣では、風火が眼鏡の傾きを直しながら、複雑な表情で信也を見つめていた。


 信也は、ただ静かに彼女たちの正面に立ち止まった。


「……途中で、信号に引っかかってな」


 信也が口にしたその言葉に、彩は不機嫌そうに片眉を跳ね上げた。


「信号? 冗談はやめて。校内に信号なんて一つもないはずよ。……今日の授業の比喩か何かなの?」


 彩の論理的な問いに対し、信也は首を横に振った。


 その動作には、迷いも衒いもない。ただ淡々と、事実を述べているだけの響きがあった。彩はそれを不思議そうに見つめていたが、信也の纏う雰囲気が、言葉以前の質量を伴っていることに気づき、唇を噛んだ。


 沈黙を破ったのは風火だった。


「……織田。その、昨日はどうだったの? 渡したあの三枚の紙、役に立った?」


 信也は無言でポケットから、少し角が丸くなった三枚の紙を取り出し、風火の手元へと返した。彼女が用意してくれた、かつての自分たちの足跡を辿るための道標。


「どこに行ったの?」


「……不変の教会とか。あとは魔公爵の領地とか、初期のフィールドをいくつかとか」


 信也の答えを聞いた瞬間、彩は呆れたように大きなため息をつき、天を仰いだ。


「不変の教会……。よりによって、一番最悪な場所を選んだわね。あそこは、今のあなたたちにとっては毒でしかない場所のはずよ。……でも、」


 彩は言葉を切り、信也の瞳の奥にある「緑と金」の光を射抜くように見つめ返した。


「……逃げずにそこを選んだっていうのは、評価してあげるわ。あなたなりの『覚悟』の現れだと、受け取っておく」


 風火もまた、返された紙を大切そうにしまいながら、静かに頷いた。


「良い場所を選んだと思うよ。そこが、すべての始まりだったんだから」


 だが、彩の追及はそこで終わらなかった。彼女は腕を組み直し、一歩踏み込んで信也に問いかける。


「それで、本題よ。今日、市香が学校を休んだから、あなたに聞くしかないの。……結局、昨日の話し合いで、何か解決したの?」


 彩の声には、期待と、それを裏切られた時の怒りが等分に混ざっていた。風火もまた、固唾を呑んで信也の回答を待つ。


「……まだだ」


 信也の答えは、あまりにも短く、そして断定的だった。


「解決していない」という事実を、敗北としてではなく、現在進行形の過程として肯定するような、不思議な響き。


「まだですって?」


 彩の瞳に、明確な怒りの炎が灯った。隣にいた風火も、驚きと落胆が入り混じったような顔で信也を見つめる。


「私達が準備をして、舞台まで用意して……。それで出した答えが『まだ』? 市香をあんなに追い詰めておいて、あなたはまだ、自分の足元を固めることすらできていないの?」


 彩の言葉は鞭のようにしなり、信也を打ち据える。風火の視線もまた、裏切られた者のそれへと変わりつつあった。二人の怒りが、湿った体育館裏の空気をピリつかせ、信也を包囲する。


 普通なら、その重圧に耐えかねて目を逸らすか、言い訳を並べ立てるところだろう。


 だが、今の信也は微動だにしなかった。


 彼は、彩の怒りを正面から受け止め、むしろその熱を自分の内側にある「澱」へと取り込むかのように、深く息を吐いた。


 そして、静かに口を開く。


「……なあ彩。俺がさっき言った信号は、ここで赤く光ったんだよ」


 信也の指先が、自分の胸のあたりを、あるいは過去の記憶の一点を指し示す。


 その声には、怒りを蒸発させるほどの、圧倒的な「静寂」が宿っていた。


 彩は言葉を失い、開こうとした口を閉ざした。


「信号」という言葉の真意。それが単なる遅刻の理由でも、比喩でもなく、信也の人生において致命的な「停止」を強いた、血の通った過去の象徴であることを、彼女の鋭い直感が理解し始めていた。


 信也は、二人の瞳を交互に見つめ、一歩も引かずに語り始めた。


「初めてのオフ会をした、あの日。俺が市香を拒絶した時の話をさせてくれ」


 その瞬間、体育館裏の空気が変質した。


 信也の体内に漂う、緑と金の澱。それが言葉となって漏れ出し、彩と風火の意識を強制的に、あの一週間の惨劇へと引きずり込んでいく。


 彩は、先ほどまでの怒りをどこかに置き忘れたように、ただ静かに肩の力を抜いた。目の前にいる信也が、もはや自分たちが導くべき「迷い子」ではなく、自らの地獄を語り、その正体を暴こうとする「当事者」へと変質したことを悟ったのだ。


 風火もまた、眼鏡の奥の瞳に深い緊張を湛え、信也の言葉を一言も漏らさないよう、祈るような姿勢で身構えた。


 信也の奥では、痛みが消え、色彩を帯びた「何か」が、ゆっくりと、けれど確実に、言語の形を借りて溢れ出そうとしていた。


 それは、どれほど正しく冷たい水を浴びせられても消えなかった、市香の焔に対する、信也なりの、初めての「返答」の序章だった。


 夕暮れの光が、体育館の屋根に反射して、三人の影を歪に伸ばしていく。


 誰も口を挟まない。


 誰も、動かない。


 ただ、信也の声だけが、重く、静かに、放課後の静寂を支配し始めていた。

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