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41・兄妹という関係4

 木曜日の朝。カーテンの隙間から差し込む春の光は、昨日までのような「暴力的で眩しすぎるもの」ではなく、どこか冷徹な透明感を帯びて信也の瞳を叩いた。


 目が覚めた瞬間、真っ先に確認したのは身体の奥の感覚だった。


 一晩経っても、あの「澱」は消えていなかった。それどころか、昨日までは混濁していた色彩が、寝静まった意識の底でゆっくりと分離し、それぞれが固有の形を成そうとうごめいている。


 深い、静謐な森の静寂を湛えた「緑色」。


 鈍く、けれど芯の通った重みを放つ「金色」。


 それはまだ、霧の向こう側にある石像のようにぼやけていて、明確な正体は掴めない。けれど、信也には確信があった。自分一人の頭でこねくり回す時間はもう終わったのだ。鋭い直感を持つ風火と、冷徹な論理で世界を裁く彩。あの二人と対峙し、言葉を交わせば、この名もなき感情は必ず「完成」する。この澱は、他者という鏡に映されることで初めて、揺るぎない一つの「言語」へと昇華されるはずだ。


 信也は重い身体を起こし、一階のリビングへと向かった。


 キッチンには、すでに仕事に出かけた母親が残した一枚のメモが、朝の光を吸って白く浮き上がっている。


「市香は、今日は学校を休むそうです。信也、帰ったら市香のことをよろしく頼みます。母より」


 文字の羅列を見つめながら、信也は短く息を吐いた。


 数日前までの自分なら、このメモを見ただけで胃の底からせり上がるような嫌悪感に襲われていただいろう。


 けれど、今の信也は違った。


「……そうだな。俺は……だもんな」


 最後まで言葉にはしなかった。けれど、その空白を埋める「何か」が、今の信也の背中を静かに、けれど逃げ場のない力で支えている。彼は迷うことなく、朝食を機械的に口へ運んだ。味はよく分からなかったが、これからの放課後に備えて、エネルギーを蓄えることだけを考えた。


 家を出て、江ノ島駅へと向かう坂道を下る。


 潮風の匂いが混じる空気の中、駅のホームに立つと、そこには既に江ノ電を待つ風火の姿があった。


 彼女は信也の姿を見つけると、いつものように少しだけ眼鏡の奥の目を細め、けれどその瞳の奥に探るような色を湛えて近づいてきた。


「おはよう、織田。……どうだった? 昨日の『デート』は」


 風火の声は穏やかだったが、彼女特有の鋭い嗅覚が、信也の周囲に漂う「空気の変質」を敏感に察知しているのが分かった。


 信也は視線を逸らさなかった。まっすぐに風火の瞳を見据え、短く、けれど重みのある声で告げる。


「……放課後、彩と合わせて、まとめて報告させてくれ」


 その一言に込められた密度に、風火はわずかに眉を動かした。彼女はそれ以上、何も聞かなかった。「分かった」とだけ短く頷き、二人の間にそれ以上の言葉は必要なかった。


 やがて滑り込んできた江ノ電に乗り込む。


 ガタン、と大きな揺れと共に電車が走り出すと、信也は車窓から流れる湘南の海を眺めた。


 ここ最近の信也にとって、学校という場所は唯一の「逃げ場」だった。


 家の中に充満する猛毒から逃れ、現実の居場所に紛れることで、自分が「織田信也」という個体であることを忘れさせてくれるシェルター。


 けれど、今は違う。


 教師の退屈な講義、クラスメイトの無邪気な笑い声、規則正しく鳴り響くチャーム。それらすべてが、今の信也にとっては、一刻も早く踏み越えるべき「障害」でしかなかった。


(早く、放課後になれ……)


 胸の奥で、緑と金の澱が激しく脈打っている。


 この感情に名前をつけ、自分たちが踏み出そうとしている深淵の正体を暴かなければならない。


 カタカタと揺れる車内、隣に座る風火の気配を感じながら、信也はただ、もどかしい時間の経過を数えていた。


「学校」というシェルターの価値が、完全に反転した瞬間だった。


 今の彼にとって、真実が待っている場所は、学校が終わった後の、あの冷たい論理が支配する体育館の裏だけなのだ。


 信也は強く拳を握りしめ、自分の中に宿った「覚悟」が、言葉を求めて咆哮するのを、じっと堪えていた。

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