40・デート4
「……ごめんなさい」
その言葉は、押し殺した嗚咽の隙間から、震える糸のように紡ぎ出された。
狭いゲーミングチェアの上で、信也の右腕に密着していた市香の身体が、これまでにないほど激しく波打つ。現実の部屋を満たす熱気と、スピーカーから流れ続ける機械竜ヒヒイロゴンの無機質な駆動音。その境界線で、彼女の心は音を立てて砕け散っていた。
「ごめんなさい……ナガ君。……お兄ちゃん。……私、最低だよね。ナガ君が、あんなに大切にしていた……が、こんな……だったなんて。……本当に、ごめんなさい」
市香の涙が、ノートパソコンのキーボードを濡らす。画面の中の「イチ」は、夕焼けの戦場に立ち尽くしたまま動かない。その背中に、現実の彼女の絶望が重なり、透過していく。
「あの日……。私が我慢できなくて、お兄ちゃんの部屋に勝手に入って……全部、壊しちゃった。……そのままにしていれば、きっと、ずっと幸せなままだったのに。お兄ちゃんの中の……は、ずっと綺麗なままだったのに。……私が、全部、汚しちゃった」
約一週間前。あの日、二人の聖域であったログイン画面の向こう側とこちら側が、残酷に接続されてしまった瞬間。市香はそれを、自らが犯した最大の「罪」として、今、この至近距離で懺悔していた。
信也は、何も言えなかった。ただ、隣から伝わってくる暴力的なまでの熱量に耐えることしかできなかった。
「……気持ち悪いって、言われたのに。あんなに正しく拒絶してくれたのに。……それでも、どうしても、好きだって気持ちが、止まってくれないの。……ナガ君を、お兄ちゃんを、困らせたくないのに。……『イチ』で……『妹』で、本当に、ごめんなさい……っ!」
その瞬間だった。
長らく信也の喉の奥に居座り、刺すような、焼けるような痛みを伴って彼を苛み続けていた「澱」に、劇的な変化が訪れた。
痛みが、消えた。
それは魔法のような消失だった。市香の悲痛な、身を削るような懺悔の言葉が、信也の内側に溜まっていた毒素を中和していくかのように。
代わって現れたのは、色を持たなかったその暗い塊の中に、じわりと広がる未知の色彩だった。
深い、静かな森の奥底を思わせるような、鮮やかな「緑色」。
そして、鈍い輝きを放ちながら、澱の芯を貫くように脈打つ「金色」。
それは、既存のどんな語彙を並べても、説明のつかない感覚だった。
だが、信也は魂の深い部分で、それを「理解」していた。この色彩こそが、今の自分と市香を結びつけている唯一の正解であり、同時に、決して人目に晒してはならない「何か」であることを。
言葉にしなければならない。
理解しているこの感覚に、名前を与え、彼女に伝えなければならない。
信也の口が、わずかに開く。澱から痛みが消え、代わりに熱を帯びた「何か」が、言葉となって溢れ出そうとした。
「……いち、か……」
乾いた吐息が、声の形を成そうとしたその瞬間――。
「信也ー! 市香ー! ご飯よー!」
階下から、場違いなほど明るく、日常の響きを伴った母親の声が、部屋の空気を無残に切り裂いた。
積み上げた言葉の塔が、一瞬にして崩れ落ちる。
理解に言葉が追い付こうとしたその回路が、現実という名の暴力によって遮断された。
信也は、溢れそうだった吐息を虚しく飲み込むしかなかった。
「……っ」
市香が、弾かれたように顔を上げた。
彼女はノートパソコンを力任せに抱えると、逃げるように椅子から降りた。
それまで信也の右半身を焼いていた彼女の体温が、急激に剥ぎ取られる。入り込んできた夕闇の冷気が、あんなに熱かった肌を、容赦なく冷やしていく。
市香は、一度も信也の顔を見なかった。
濡れた視線を隠したまま、ドアのノブを掴み、背中を向けて立ち止まる。
「……お母さんには、今日は夕飯はいらないって言って」
それだけを言い残すと、彼女は部屋を飛び出していった。
廊下を遠ざかる、裸足の足音。それが自分の部屋のドアを閉める音へと繋がるまで、信也はただ、大型モニターの青白い光に照らされたまま動けずにいた。
一人残された静寂の中で、信也は自らの中にある三つの事実を確認するように、深く息を吐いた。
一つ。喉を刺していた澱の痛みが、完全に消えたこと。
二つ。暗い澱の中に、緑色と金色の、鮮やかな色彩が宿ったこと。
三つ。しかし、それを自分の中でどう整理し、名付ければいいのか、まだ全く分かりきっていないということ。
モニターの中では、ナガの隣にいたはずの「イチ」の姿が、ログアウトによって消滅していた。
一ヶ月ちょっと前、この教会で誓い合った幸福。
一週間ちょっと前、この部屋で砕け散った日常。
そして今日、この場所で色づいた、名もなき情念。
信也は震える右手でマウスを握り、ゆっくりとカーソルを「終了」のボタンへと運んだ。
「……ログアウト」
画面が暗転する。
次の瞬間、漆黒に染まったモニターには、青白い部屋の明かりに照らされた自分の顔が映し出された。
そこにいたのは、今にも泣き出しそうな、あまりにも頼りない少年の姿だった。市香の絶望を受け止めるにはあまりに未熟で、現実の荒波に抗うにはあまりに脆弱な、一人の兄。
だが、その瞳の奥――魂の最も深い場所には、今まで一度も宿したことのない、鋭い光が灯っていた。
身体の芯で脈打つ「緑と金」の澱が、その光と呼応するように熱く疼く。
それは、どれほど正しく、冷たい水を浴びせかけられても、決して消えることのない「覚悟」の芽生えだった。




