38・デート2
「不変の教会」の石造りの床に二人のアバターの影が長く伸び、ステンドグラスから差し込む無機質な光が、ナガとイチの装備を淡く照らし出していた。現実の部屋では、相変わらずゲーミングパソコンの排熱と、肩を寄せ合う市香の体温が混ざり合い、逃げ場のない熱気となって信也を包み込んでいた。
教会の静謐な空気に当てられたのか、二人はしばらくの間、チャットを打つことも声を出すこともなく、ただ画面の中の祭壇を見つめていた。
このままでは、何も変わらない。
ただ時間が過ぎ、気まずい沈黙に耐え切れなくなって、何も解決しないまま今日という一日が終わってしまう。その予感に突き動かされるように、信也は喉の奥で燻り続ける熱い「澱」を飲み下し、掠れた声を絞り出した。
「……市香。俺も、行きたい場所があるんだ」
「え……?」
市香が、わずかに首をかしげる。その拍子に、サイドテールの毛先が再び信也の首筋を優しく撫でた。ぞくりとするような感覚を無視して、信也はマウスを握り込み、キャラクターを歩かせ始めた。
「……ついてきてくれ」
それから二人は、電子の海に刻まれた「自分たちの足跡」を辿る旅に出た。
最初に向かったのは、今では誰も寄り付かない低レベル帯のフィールド「聖戦の跡地」だった。
三年前、まだ右も左も分からなかった初心者のナガが、同じく慣れない手つきで剣を振るっていたイチと初めて出会い、言葉を交わした場所。荒涼とした岩場が広がるだけの景色だが、信也にとっては、この世界のすべてが始まった原点の地だ。
「ここって……。お兄ちゃん、よく覚えてたね」
市香が、どこか遠い目をして呟く。
次に訪れたのは、王都セントラルの片隅にある、噴水が見える古びたベンチだった。
クエストの合間、あるいは寝る前の数時間。特に何をするわけでもなく、ただお互いの今日あった出来事を、文字だけで延々と語り合った場所だ。
「明日のテスト、嫌だな」
「頑張って。終わったらまたここで会おう」
そんな、今となっては胸を締め付けるほど純粋で、他愛のない約束をいくつも積み上げた、語らいの聖域。
さらに二人は、経験値稼ぎや金策のために、文字通り飽きるほど何度も足を踏み入れた「魔公爵の領地」へと向かった。
効率のいい狩場を求めて二人で戦略を練り、全滅しそうになっては笑い合い、レアドロップに歓喜した、日常の戦場。
数々の場所を巡るうちに、現実の部屋を満たしていたはずの「毒」が、画面の中の懐かしい景色によって一時的に塗りつぶされていく感覚があった。
肩を寄せ合い、同じ景色を追い、同じ敵を討つ。
その繰り返しの中で、信也は自分の隣にいるのが「妹の市香」であることを忘れそうになるほど、かつての「嫁であるイチ」の輪郭を必死になぞっていた。
気がつくと、窓の外は燃えるような茜色に染まっていた。
一階からは、仕事から帰宅した母親がキッチンで夕食の支度を始める、包丁がまな板を叩く乾いた音が微かに響いてくる。
まもなく訪れる夕食の時間。
それは、この仮想の聖域からログアウトし、食事という「家族」の儀式のために、再びあの息の詰まる現実の兄妹という呪縛へと戻らなければならないことを意味していた。
信也は、その断絶の予感に、心を引き裂かれるような深い悲しみを覚えていた。
(まだ、終わりたくない……。まだ、こいつと一緒にいたい)
そう願ってしまう自分自身に、絶望と、それ以上の切なさが募る。
喉の奥の澱が、悲しみという温度を帯びて膨らんでいく。
「……時間、だね」
市香が、消え入りそうな声で言った。
画面の中のイチは、夕日に照らされたフィールドの真ん中で立ち止まっている。
「……最後、まだ一箇所いける。……どこに行きたい?」
信也は、祈るような心地で問いかけた。
数時間前、行き先を決められないまま、逃げるように発したあの無様な問いとは違う。
今の信也には、自分が行くべき場所、そして彼女もまた、そこを望んでいるはずだという確かな、そしてあまりにも残酷な予感があった。
けれど、それをあえて自分から口にすることはできなかった。もし違っていたら、この数時間の魔法が解けてしまうのが怖かったからだ。
沈黙が、重く部屋を満たす。
隣に座る市香の呼吸が、わずかに速くなったのが分かった。
彼女は震える指先でマウスを動かし、マップ上の、ある一点を指し示した。
「……ここ。ここに、行きたい」
イチが――市香が答えた場所。
それは信也が心に描いていた場所と、寸分違わず同じ座標だった。
この一週間、最悪の形でのみシンクロを続けていた二人の魂が、終わりの時間の直前、ようやく一つの「答え」で結びついた。
二人のアバターが、最後の目的地へと向かって駆け出す。
そこは、今の二人にとって最も馴染み深く、それでいて最も高い「壁」が待ち受ける場所だった。




