37・デート
午前十時十分。
織田家の玄関には、まだ兄妹の靴が二足、行儀よく並んだまま残されていた。
春の陽光を吸った暖かい風が、開け放たれたリビングの窓から入り込み、誰もいなくなった食卓に残された三枚の紙切れ――水族館のチラシ、映画の半券、カフェのカードを虚しく揺らしている。
本来ならば、二人は今ごろ家を出て、江ノ島駅に向かって家の前の坂道を下っているはずの時間だった。彩が「兄妹関係という猛毒が充満しすぎた」と評したこの家から脱出し、他人同士がひしめく外の世界へ、強制的に「解毒」されに行くはずだったのだ。
しかし、信也と市香は家の外にはいなかった。
二人は、この家の中で最も「個」が凝縮された密室、信也の自室にいた。
「……そこに行きたいのか?」
信也の声は、狭い部屋の空気に溶けて消えた。
彼は既に外出用の服に袖を通し、いつでも家を出られる準備を整えていた。それに対して、ノックをして彼を呼びに来た市香は、お気に入りのバッグを肩にかけることもなく、着替えすらしていない部屋着のままだった。
ただ、その細い腕には、大切そうに一台のノートパソコンが抱えられていた。
「うん。お兄ちゃんも……マウス、握って」
市香の言葉は静かだが、拒絶を許さない響きがあった。
二人の手には、それぞれ慣れ親しんだマウスが握られていた。現実世界での「デート」という彩たちの提案を、市香は真っ向から踏みにじった。彼女が提示した目的地は、物理的な座標ではなく、電子の海の中に浮かぶ仮想の聖域だった。
「……不変の教会、か」
信也が呟くと、画面の中に懐かしい景色が広がった。
「PMO」の辺境にある、古びた、けれど荘厳な石造りの教会。
そこは、忘れもしない一ヶ月ちょっと前、プレイヤーとしての「ナガ」と「イチ」が、ハルとアヤに祝福されながら結婚式を挙げた場所だった。
「そっち寄って。……私の席、ないから」
市香は当然のように、信也が座っている唯一のゲーミングチェアの端に、身体をねじ込んできた。
「おい、狭いだろ」という抗議は、思い浮かびもしなかった。狭い机の上に、信也のデスクトップ用の大型モニターと、市香の小さなノートパソコンが並ぶ。
二人の身体は、文字通り「おしくらまんじゅう」をするような形で密着していた。
信也の右肩に、市香の左肩が重なる。市香がわずかに首をかしげるたび、結い上げたサイドテールの毛先が信也の首筋をくすぐった。
薄い部屋着越しに伝わってくるのは、自分よりも少し高い、少女特有の生々しい体温だった。
ゲーミングPCが吐き出す熱気と、すぐ隣にいる妹の熱。部屋の温度はみるみるうちに上昇し、額に薄っすらと汗がにじむ。
本来なら、生理的な嫌悪感で飛び退いてもおかしくない状況だった。少し前の自分なら、この距離感に吐き気を覚えていただろう。
だが、不思議だった。
今、この肌が触れ合う距離が、全く嫌じゃない。
むしろ、この熱だけが、今の自分たちを繋ぎ止めている唯一の「真実」であるかのような錯覚さえ覚えていた。
画面の中では、アバターのナガとイチが、教会の入り口に並んで立っている。
「……ねぇ、お兄ちゃん。結婚式のこと、覚えてる?」
市香が、画面を見つめたままポツリと零した。
その声は、現実の妹のものではなく、どこか一ヶ月前の「イチ」の響きを帯びていた。
「もう、一ヶ月も前だよね。あの時は……楽しかったな」
「……はっきり覚えてるよ。『まだ』一ヶ月ちょっとだからな」
信也は、自分の声が微かに震えるのを抑えられなかった。
一ヶ月。それは短いようでいて、今の二人にとっては他の何とも比べられない幸福と思い出すだけで狂いそうな地獄の日々を含んだ日数だ。あの時、教会のバージンロードを歩きながら感じていた幸福感は、今でも脳裏に焼き付いている。あの瞬間、二人の間には確かに「愛」があった。それがたとえ、顔も知らないネット上の関係だったとしても。
信也の言葉を聞いた瞬間、市香の表情がわずかに動いた気がした。
喜びなのか、それとも、耐え難いほどの悲しみなのか。
だが、信也はそれを確認することができなかった。確認してはいけないと、理性が警告を発していたからだ。
彼は、頑なに画面の中のアバターだけを見つめ続けた。
マウスを握る手に力が入り、クリックの音がやけに大きく響く。
隣に座る市香の顔を、今この至近距離で見てしまえば――。
自分たちを辛うじて縛り付けている「兄と妹」という透明な鎖が、音を立てて砕け散ってしまう。
そうなれば、自分の中にある「澱」が、形を変えて溢れ出し、取り返しのつかない崩壊を招いてしまう気がしていた。
「……行こう。中へ」
信也は逃げるように、キャラクターを操作して教会の扉を開けた。
現実の部屋を満たす熱気とは対照的に、画面の中の「不変の教会」は、一ヶ月前と変わらず冷ややかで、静謐な輝きを放っていた。
二人の指先が、それぞれのマウスの上で重なることはない。
けれど、狭い椅子の上で触れ合う肩からは、心臓の鼓動すら伝わってきそうだった。
猛毒が充満した家の中で、二人はさらに深い深淵へと、ゆっくりとログインしていった。




