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36・デートの誘い

 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、無機質なリビングの床に長い影を落としていた。


 昭和の日。カレンダーの上では祝日だが、共働きの両親は既に仕事に出払っている。静まり返った家の中に響くのは、自分の浅い呼吸音と、焼き過ぎたトーストを齧る乾いた咀嚼音だけだ。


 信也は、昨日、風火と彩から押し付けられた三枚の紙切れ――水族館のチラシ、映画のペアチケットの半券、そしてお洒落なカフェのショップカードを、食卓の上に並べていた。


 手元には、画面を点けっぱなしにしたスマートフォンがある。


「水族館 混雑状況」

「最新映画 評判」

「江ノ島周辺 人気カフェ」


 検索履歴は、昨日からそれらの言葉で埋め尽くされていた。指先で画面をスクロールし、どこが一番「無難」か、どこなら「沈黙が怖くないか」を必死に探っている――つもりだった。


 だが、実際には文字など一つも頭に入っていなかった。


 信也がしているのは「計画」ではない。ただの「逃避」だ。


 情報を検索するという行為に没頭することで、「市香を誘う」という、心臓が握りつぶされそうなほど恐ろしい本番から、一分一秒でも長く逃げ続けようとしているに過ぎない。


(……無理だ。誘えるわけがない)


 そう考えるたびに、喉の奥の「澱」が、重苦しく疼いた。


 約一週間前、この家で、あるいは体育館の裏で、自分たちは決定的に壊れたのだ。自分を「ナガ」だと慕い、狂おしいほどの情念をぶつけてきた実の妹。それを生理的な嫌悪と共に突き放した自分。


 そんな二人が、今さら水族館で魚を見て、映画館でポップコーンを分け合い、カフェで流行りのスイーツに舌鼓を打つ?


 滑稽だった。想像するだけで、内臓を裏返されるような不快感がこみ上げてくる。


 だが、スマホの画面に映る自分の顔は、風火が言った通り、どこか「救い」を求めているようにも見えた。最低で、おぞましくて、けれどこの地獄を終わらせてくれる何かが欲しくてたまらない、浅ましい餓鬼の表情。


(情けない……本当に、情けないな、俺は)


 時計の針が、非情にも十時を回った。


 焦燥感だけが空回りし、何も決まらないまま時間だけが溶けていく。


「あと五分経ったら声をかけよう」「いや、彼女が部屋から出てきたらでいい」……そんな言い訳を積み上げている時だった。


 ギィ、と二階でドアが開く音がした。


 信也の肩が、目に見えてびくりと跳ねる。


 階段を下りてくる、迷いのない足音。裸足が床を叩く音が、静かなリビングに届いた。


 信也は慌ててスマホを伏せ、手近にあった冷めきったトーストを口に運んだ。咀嚼する余裕なんてないのに、何かをしていないと耐えられなかった。


 やがて、ふらふらとした足取りの市香がリビングに現れた。


 彼女は信也の存在など視界に入っていないかのようにキッチンの冷蔵庫へ向かう。


 家の中には、彩の言った通り、兄妹という関係性が醸成した「猛毒」が充満していた。息を吸うだけで肺が焼けるような、拒絶の空気。


 市香が冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぐ。


 カチリ、と何かがぶつかる音が、今の信也には爆発音のように大きく聞こえた。


 彼女が水を飲み干し、グラスをシンクに置く。


 そして、一度もこちらを見ることなく、再び二階へ戻ろうと踵を返した。


 その背中を見た瞬間、信也の脳裏に、夕闇の体育館裏での光景がフラッシュバックした。


「離婚した方がいいんじゃない?」


 冷徹なアヤの声。


「仲直りできると思うよ」


 不器用な風火の笑顔。


(今だ。今しかない)


 本能が叫んでいた。


 ここで彼女の背中を見送れば、二人の関係は永久に凍結される。二度と解けることのない、永久凍土の底に沈む。


「情けない」の、さらにその遥か下――人として、兄として、そして「ナガ」として、自分は死ぬことになる。


「…………っ!」


 腹の奥に力を入れて、息を吸った。澱の痛みは感じられなかった。


「……待てっ、市香!」


 鋭すぎたかもしれない。掠れた、余裕のない声。


 市香の足が、ぴたりと止まった。彼女は振り返らない。ただ、細い肩が僅かに強張ったのが分かった。


「……何?」


 温度のない、短い問い。


 信也は、テーブルの上に散らばった三枚の紙を、震える手でかき集めた。


「あの、これ……武田に、ええと、ハルに、もらったんだ。……明日、あ、いや、今日、休みだから、どっか、外に……」


 言葉が繋がらない。行き先すら決めていない、丸投げの、あまりにも無様な誘い。


「……行きたいところ……ない、か? どこでも、いいんだ。……お前が、行きたいところなら」


 言い切った後、猛烈な自己嫌悪が押し寄せた。


 エスコートの一つもできないのか。行き先くらい、決めておくべきだった。こんな情けない問いかけに、彼女が応えてくれるはずがない。


 沈黙が流れる。


 永遠とも思える数秒の後、市香がゆっくりと振り返った。


 彼女の瞳は、信也が差し出した水族館のチラシも、映画の半券も、お洒落なカフェのカードも見ていなかった。それらは彼女にとって、今の「自分たち」にはあまりにも眩しすぎて、ふさわしくないものに見えているようだった。


「……そこには、行きたくない」


 拒絶。その言葉に信也の心臓が止まりかける。


 だが、市香の言葉には続きがあった。


「水族館も、映画も、カフェも……そんなところ、今の私は行きたくない」


 市香は一歩、信也の方へ踏み出した。


 その表情には、一週間前の絶望とは違う、どこか覚悟を決めたような冷徹な光が宿っていた。


「……代わりに、行きたい場所がある」


「え……?」


「お兄ちゃん……部屋で待ってて」


 それだけを言い残し、市香は一度も振り返ることなく二階へと消えていった。


 残された信也は、手に持っていたチラシやチケットを、力なく食卓へ置いた。風火たちが用意してくれた「一般的な正解」は、今の自分達にはあまりにも軽すぎたのだ。


(部屋で待ってて、か……)


 その言葉が、かつてネトゲの中で「ねぇ、ナガ君。今夜はあそこに行こうよ」と囁いていた彼女のチャットと重なり、胸の奥を締め付ける。


 信也は重い足取りで自分の部屋へと戻った。


 窓の外では、祝日の喧騒を遠くに置き去りにしたような、不気味なほどの静寂が広がっている。


 着替えを済ませ、ベッドの端に腰を下ろしてその時を待つ。


 数分後。

 微かな、けれど確かな足音が、信也の部屋のドアの前で止まった。


 コン、コン。


 短く二回、ノックの音が響く。


 それは、偽りの日常を終わらせ、あるべき日常へと踏み出すための、開戦の合図だった。

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