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35・呼び出し2

「……ナガ。あなた、このままなら『離婚』した方がいいんじゃない?」


 彩の口から放たれたその言葉は、精神的な衝撃を伴って信也の鼓膜を叩いた。


「離婚」――ネトゲ内での関係を解消すること。それは、唯一残された市香との繋がりを、自らの手で断ち切ることを意味していた。


「市香の方も、もう限界よ。今のあの子の精神状態はあんたが思っている以上に摩耗しているわ。共倒れになる前に、システム上の繋がりを解くのも一つの手よ」


「……っ、それは、嫌だ!」


 考えるよりも先に、拒絶の言葉が漏れていた。喉の奥の「澱」が鋭い刺痛となって走り、視界がちかちかと明滅する。信也は震える指先で錆びた手すりを掴み直し、必死に声を絞り出した。


「嫌だ……それだけは、嫌だ!これは、俺と市香……生身の問題であって、ナガとイチの問題じゃないだろう!?ゲームの中まで、壊したくない……っ!」


「いいえ、壊れているわよ。とっくにね」


 アヤは一歩、信也に歩み寄った。彼女の黒い瞳が、逃げ場を塞ぐように彼を射抜く。


「画面の中にいるその存在だけが嫁。操作している妹は関係ない。今のあなたにその思考が本当にできている? 織田、あなたはもう、イチと市香を分けられていない。……そうでしょう?」


「…………」


 心臓を直接掴まれたような気がした。


 否定したかった。自分はゲーマーとして、あるいは市香の兄として、虚構と現実を切り離せていると。だが、実際にゲーム画面を開けば、ヒーラーとしての指先は凍りつく。イチの背中を見るたびに、リビングで背中を向けていた市香の、あの絶望的なまでに冷ややかな視線がフラッシュバックする。


 分けられてなど、いない。


 心の底に楔のように刺さった「澱」が、毒素となって現実と仮想の境界線を溶かし、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わせている。


「……黙るってことは、自覚があるのね」


 アヤは小さく溜息をつき、隣にいた風火に視線を送った。風火はそれに応えるように、制服のポケットからいくつかの紙切れを取り出し、強引に信也の掌に押し付けた。


「……これ、持っておきなよ」


 渡されたのは、近所の水族館のチラシと、映画のペアチケットの半券、そしてどこかのお洒落なカフェのショップカードだった。


「宿題だよ、織田。離婚したくない、ギルドも壊したくないって言うなら、まずはイチちゃんと話し合ってきて。……明日、昭和の日でしょ? 学校も休みなんだし、外に出て二人で向き合うの」


「外に、誘う……? 市香を……?」


「そうよ。家の中じゃ無理でしょ。兄妹関係という猛毒が充満しすぎた家の中で何を話しても無駄だと思うの。だから、空気が通る場所へ行きなさい」


 アヤが淡々と指示を重ねる。その声は、もはや最後通牒に近い響きを持っていた。


「さっき、昼休みに市香を呼び出して同じことを言ってきたわ。『明日、織田にデートに誘われなさい』ってね。……ふふ、全く同じ顔。織田、あなた今、あの子がその提案を聞いた時と全く同じ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているわよ」


「市香も、これを見たのか……?」


「そうだよ。イチちゃんも最初、織田と同じくらい絶望的な顔してた」


 風火が少しだけ表情を和らげ、信也の肩をポンと叩いた。


「でもね、ちょっとだけ。イチちゃん、嬉しそうな顔もしていたんだ。……今の織田もそう。困ったような顔してるけど、どこかホッとしたみたいに、嬉しそうな顔をしてる。だから、きっと大丈夫。仲直りできると思うよ」


「……武田……」


 風火の言葉に、信也は言葉を失った。自分では気づかなかった、心の奥底にある願望。それを風火は見抜いていた。風火の隣の彩も、風火に同調するように頷いた。


「いい? 明日、何とかしてきなよ。ギルマス命令なんだからね!」


 二人はそれだけ言い残すと、夕闇が迫り始めた体育館裏から立ち去っていった。


 一人残された信也は、渡されたチケットの束を見つめ、呆然と立ち尽くしていた。


「市香をデートに誘う」という、今の状況ではあまりにも重く、大変な宿題を背負わされた。


 けれど、どうしようもなく苦しかったはずの「澱」が、なぜかほんの少しだけ、楽になっている気がした。


 湿った風が吹き抜け、足元のゴミがカサリと音を立てる。


 逃げ場のない一週間に、初めて「出口」への道筋が示されたような気がして、信也はチケットを強く握りしめた。

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