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34・呼び出し

 ヒヒイロゴン相手にずるずると黒星を重ね続けて時間が過ぎていき、信也が気がついた時には火曜日となっていた。何をしていたのかは信也自身よく覚えていない。ただ、せっかくの休日であった土日よりも、学生としての責務に追われていた月曜日の方が楽だった覚えがある。


 だから、今日の放課後のチャイムも、今の信也にとって救いの合図ではなく、逃げ場のない現実へと引きずり戻される宣告でしかなかった。


 教室の窓から差し込む西日は、埃をキラキラと輝かせている。それが酷く不快だった。心の底に楔のように深く刺さった「澱」が、呼吸をするたびに全身に痛みを伴って主張してくる。先週から続くこの感覚は、とっくに不快感というレベルを通り越していた。


 机に伏していた信也の肩を、誰かが無造作に叩く。


「……信也、ちょっと来なさい」


 低く、温度のない声。顔を上げると、そこには瞳を冷徹に細めた彩が立っていた。彼女の隣には、いつもなら太陽のように明るいオーラを放っているはずの風火が、今はひどく険しい表情で唇を噛み締めて立っている。


「え、あ……」


 声が出ない。「澱」の痛みが邪魔をして、掠れた呼気が漏れるだけだ。信也の返事も待たず、風火が彼の制服の袖を強く掴んだ。その力は驚くほど強く、拒絶を許さない意志が宿っている。


「いいから、来て。話があるの」


 抵抗する気力すら湧かなかった。信也は幽霊のように力なく立ち上がり、二人に引きずられるようにして教室を後にした。


 向かった先は、校舎の裏手、体育館の影。


 そこには非常階段の錆びた手すりが複雑に組み合わさり、誰の視線も届かない、溜まったゴミだけが湿った風に躍るデッドスペースがあった。


 信也にとって、ここは忌まわしい記憶の場所だ。


 ちょうど一週間前、この場所で彼は市香に狂った独白をされ、そして彼女を拒絶した。あの瞬間から、すべては狂い始めたのだ。どんよりとした淀んだ空気が、今もこの場所にこびりついているような気がして、信也は吐き気を催した。


「……酷い顔ね、信也」


 彩が腕を組み、信也を検分するように見つめる。その言葉には容赦がない。


「鏡、見たことある? 頬はこけ、目は落ち窪んで、肌の色は土をこねたみたい。何か死にかけている表情ね。まるでゾンビよ」


 辛辣なコメント。本来なら「言い過ぎだろ」と苦笑いの一つでも返せるところだが、今の信也には口角を上げる筋力さえ残っていなかった。ただ、鉛のように重い頭を垂れ、コンクリートの地面を見つめることしかできない。


 ここ一週間。信也の生活から「平穏」という概念が消失した。


 妹である市香の存在に四六時中心をかき乱されるという地獄が続いていた。


 朝、廊下ですれ違う瞬間の凍りつくような沈黙。


 食卓で、視線を合わせることなく黙々と食事を運ぶ機械的な動作。


 かつて「イチ」として画面越しに愛し、守りたいと思っていた存在が、今や自分の喉を締め上げる物理的な重圧となって目の前に居座っている。その事実が、文字通り彼の精神と肉体を内側から削り取っていた。


「……分かっていると思うけど、織田。イチちゃんもそうだけど、動きが酷すぎるよ」


 風火が、押し殺したような声で切り出した。彼女の言葉は、彩の毒舌よりも深く、鋭く信也の胸を抉った。


「昨日も、その前も。ヒヒイロゴン戦、見ていて耐えられなかった。敵の挙動以前の問題だよ。明らかに、お互いの存在がノイズになりすぎている。織田が回復を飛ばすべき瞬間にイチちゃんを見て硬直して、イチちゃんは織田が近くにいるだけで剣筋が鈍る」


「……っ」


「今の二人は、パーティーを組んでいるんじゃない。お互いに足を引っ張り合って、沈没しようとしている泥舟だよ。ギルドマスターとして言わせてもらうけど、今のままだと全滅を繰り返すだけ。……二人とも、もう限界でしょ?」


 ぐうの音も出ない正論だった。


 かつて、ナガとイチは「阿吽の呼吸」と称されるほどの連携を誇っていた。言葉がなくとも、視線とアバターの予備動作だけで、次の一手を見事に補完し合えたのだ。お互いの欠点を埋め、長所を何倍にも膨らませる、最高の「相棒」だったはずだ。


 だが今はどうだ。


 ボイスチャットどころか、簡易チャットでの意思疎通すらままならない。それどころか、ゲーム画面越しに相手のキャラクターを見るだけで、その背後に透けて見える「現実の血縁者」というおぞましい事実が、信也の思考を完全にフリーズさせる。スキルを選択しようとしても、指先が動かないのだ。


 助けたいはずのヒーラーが、アタッカーを拒絶し。


 斬り込みたいはずのアタッカーが、ヒーラーに背中を預けることを恐れている。


 皮肉なことに、かつてあれほど完璧にシンクロしていた二人の魂は、今や「嫌悪」という形で見事なまでにシンクロしてしまっていた。相手が何を考え、どれほど自分を不潔だと感じ、どう自分を拒んでいるかが、痛いほど理解できてしまう。だからこそ、ノイズは増幅され、狂気となって全身を刺し貫くのだ。


 信也は、錆びた非常階段の手すりを指が白くなるまで握りしめた。


 喉の奥の澱が、ピリリと、微かな痛みを伴って震える。


 このままでは壊れる。


 いや、もうとっくに壊れているのだ。信也も、市香も。そして、彼らが愛した「戦国」というギルドそのものも。


 風火の視線が、憐れみと怒りの混ざった複雑な色を帯びて、信也の身体の震えに突き刺さっていた。

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