33・信也の心3
金曜日。積み重なった澱は、もはや粘膜を焼くような熱を帯び、全身の神経を逆撫でするほどの鋭さで脈打っていた。
昼休み。ざわめく教室の片隅で、信也は机に肘をつき、痛む喉をさすりながら、ただ放課後の到来を待っていた。
そこへ、一人のクラスメイトが、軽い足取りで近づいてきた。
「なあ、織田。ちょっといいか?」
話しかけてきたのは、女子とも気さくに話す、いわゆる「陽」の空気を纏った男子だった。信也は顔を上げず、短く「なんだ」とだけ返す。
「お前の妹、市香ちゃんだっけ。最近マジで可愛いよな。中学の時から有名だったけど、ここ最近の、あの今にも折れそうな危うい感じがもうたまらないっていうか。……今度、紹介してくれよ。マジで頼むわ」
男の口から出た「市香」という名前。
その瞬間、信也の体温が沸点を超えた。
「……ふざけんな」
それは、自分でも驚くほど低く、地這うような威嚇の響きを帯びていた。
「えっ、織田……?」
「ふざけんな! 絶対に嫌だ! 二度とその名前を出すな!」
静寂を切り裂くような怒号。
椅子が派手な音を立てて倒れ、周囲の視線が一斉に突き刺さる。信也は肩を大きく上下させ、目の前の男子を、殺意さえ混じった眼差しで睨みつけた。
当惑し、引きつった顔で後退りする男子の姿を見て、ようやく信也の脳に理性が戻ってくる。
「……悪い。……怒鳴って、ごめん」
掠れた声でそれだけ告げると、信也は逃げるように教室を飛び出した。
誰もいない階段の踊り場で、信也は壁に頭を打ち付け、自問自答を繰り返す。
(……何やってんだ、俺は)
市香がこの男のものになっても、自分には関係ないはずだ。
イチは、俺だけの「嫁」であるイチだ。
市香は、単なる「妹」である市香だ。
そう割り切ったはずだ。兄妹で結婚なんてありえないと笑い飛ばしたし、愛を囁くのは「PMO」の中にいる「イチ」を相手にしている時だけだった。
市香に男を紹介するのは、兄として面倒な手続きが増えるだけであって、それ以上の不快感など、一ミリも覚えるはずがない。
なのに、どうしてあんなに、血が逆流するほど腹が立った?
どうして、あいつの汚れた視線が市香に向くことが、耐え難いほど嫌だった?
脳裏に浮かぶのは、液晶の中のフリルを纏った「イチ」ではない。
今朝の食卓で見かけた、絶望したような、それでいてどこか自分を求めているような「市香」の顔だった。
その夜、ログインした「PMO」の世界は、もはやゲームですらなかった。
今日も、ヒヒイロゴンには勝てなかった。
いや、もはや挑戦そのものが自棄になっていた。
ヒーラーである「ナガ」の動きは、味方を守るための献身さを失い、乱暴で場当たり的な挙動に終始していた。
そして「イチ」もまた、ナガの不安定さに呼応するように、かつての鮮やかさを失った、壊れた人形のような動きを見せる。
二人揃って、強敵から勝利をもぎ取れるとは到底思えない動き。惨めな敗北の積み重ね。かつては阿吽の呼吸だったスキルのタイミングは、今や不快なノイズのようにズレ、互いの背中を守ることさえ忘れたかのような、自棄っぱちな乱撃が空を切る。
しかもあれだけ愛し合っていたのに、いつのまにか「イチ」とも信也はうまく話せなくなっていた。チャット欄に打ち込んでは消す言葉は、どれも余計な毒を帯びている気がして、送信ボタンを押す指が呪われたように動かない。
ヘッドセットを投げ出し、ベッドに倒れ込む。
こんな感じで、俺は完全におかしくなっていた。
何を見ても、何を聞いても、市香という「正体」に過敏に反応し、現実と仮想の境界線がズタズタに引き裂かれていく。
けれど、なぜこうなっているのか。
どうすればこの痛みは治るのか。
その答えは、真っ暗な部屋のどこを探しても、見つかることはなかった。
この次の話でいわゆる起承転結の転に入ります。こういう事を言うと「強欲」とか「みっともない」とか言われるかもしれませんが、物語が究極に盛り上がる前の、まだギリギリ後書きが話を読み進める邪魔にならない今のうちに言わせてください。「面白いとか続きが気になるとか、あるいはそれら以外も含めて、心が動かされたならば、ブクマや高評価で応援してください」




