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32・信也の心2

 木曜日。喉の奥に居座る「澱」は、もはや粘り気のある塊ではなく、鋭利なガラス片のような刺痛へと完全にその性質を変えていた。


 二時限目終わりの休み時間。教室の喧騒が耳の奥で不快なハウリングを起こす中、信也はただじっと机に突っ伏していた。唾を飲み込むたびに、食道の壁がチリチリと焼けるように痛む。


 この痛みの根源は何だ。市香に対する生存本能的な恐怖か、あるいは「イチ」を失った喪失感の裏返しなのか。だが、どちらでもないと「何か」が告げている気がする。掴めそうで掴めないその正体が、信也の苛立ちをさらに加速させていた。


「……織田、無理してない? 休んだ方が良いんじゃ……」


 すぐ後ろの席から、遠慮がちな声がかけられた。


 振り返らなくてもわかる。ギルドマスターのハルの中の人である、風火だ。


 普段の休み時間なら、彼女は前のめりになって「ハル君の新しいメイド服コーデを見て!」と、自キャラであるハルの華々しい姿を自慢げに語り散らしてくるはずだった。その無邪気な自己顕示欲こそが、信也にとっての日常の一部だった。


 だが、今の彼女の声には、そんな軽薄な明るさは微塵もなかった。一人の友人として、心底から信也の体調を案じる響きがあった。


「……大丈夫だ」


 信也は顔を上げず、喉の奥から絞り出すように答えた。一言発するだけで、ガラス片が喉を切り裂く。


「ただ、今日のヒヒイロゴン戦も、夕飯を食ってからやらせてくれ」

「えっ、でも…… 無理してログインしなくても……」

「やるよ。……それだけだ」


 拒絶に近い声に、ハルは少し言葉を詰まらせた。信也の頑なな態度に押され、風火は「……わかった。無理はしないでよ」と、小さく頷く気配を残して引き下がった。


 昼休み。教室の頭に響く喧噪に耐えきれず、信也は冷たい潮風を求めて外へと這い出した。


 中庭のベンチへ向かう途中、江の島の海から吹き付けてくる風が、火照った頬をなでる。だが、その程度の冷却では、喉の奥で燃え盛る感情を鎮めることはできなかった。


 ふと、視界の端を何かが掠めた。


 角を曲がって、体育館の方へと歩いていく少女の背中。


 緩くウェーブのかかったサイドテール。その結び目には、清潔感のある白いシュシュが揺れている。


「っ……!」


 心臓が肋骨を突き破らんばかりの勢いで跳ね上がった。


 全身の血が逆流し、視界がチカチカと明滅する。


 市香だ。


 呼吸が止まり、喉の澱がせり上がってきて視界を真っ白に塗りつぶす。生存を脅かされるような、動物的な恐怖が信也を支配した。


 だが、その少女が完全に角を曲がりきる直前、信也は気づいた。


 彼女が肩にかけているスクールバッグのチャーム。それは市香が持っているものとは似ても似つかない、派手なキャラクターものだった。


 別人だ。


 市香ではない、ただの女子生徒。


 その事実を理解した瞬間、信也の内に湧き上がったのは安堵ではなかった。


 ――激しい、憤怒だった。


(市香でもないくせに……。紛らわしい格好で、俺を惑わせるなよ)


 自分でも驚くほど理不尽で、猛烈な怒り。


 なぜ。自分はあんなに市香を嫌悪し、その存在に怯え、遠ざけたいと願っているはずなのに。


 なのに、どうして自分は今、「市香じゃないこと」に対して、これほどまで腹を立てているのか。


 恐怖の対象を遠ざけたい本能と、その対象以外が「彼女」の記号を纏うことへの不快感。


 嫌悪と執着が、表裏一体となって自分を蝕んでいる。その矛盾だらけの葛藤に、信也は激しい混乱を覚えた。市香に汚された「イチ」を嘆きながら、同時に、市香に似た存在すべてを不純物として排除しようとしている自分の異常性が、何よりも恐ろしかった。


 結局、昼飯は一口も喉を通らなかった。


 その夜、ハルとの約束通りログインした「PMO」の世界。


 黄金の杖を握るナガの指先は、かつてないほど震えていた。


 アヤの精密な指示も、ハルの悲痛な叫びも、今の信也には空疎なノイズとしてしか響かなかった。


 画面を埋め尽くすのは、冷酷な「全滅」の二文字。


 何も変わらない。好転などしない。


 ただ空虚な黒星を積み上げるだけの時間が、刻一刻と信也の精神を削り取っていく。


 ヘッドセットを外した静寂の中、信也は痛む喉をさすりながら、壁一枚隔てた隣の部屋に意識を向けた。


 そこにいるのは、自分の聖域を奪った加害者であり、そして、この世で唯一自分と同じ地獄を共有している「市香」だ。


 喉の奥の澱が、深く、自分自身の中心へと突き刺さった。

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