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31・信也の心

 水曜日の放課後。掃除当番の割り当てを終えた信也は、濡れた雑巾の冷たさを指先に残したまま、校舎を後にした。


 つい二日前まで、この時間は信也にとって一分一秒を争う勝負の始まりだった。すべては、一刻も早く「PMO」にログインし、液晶の向こう側で待つ「イチ」に会うためである。現実の妹である市香をやり過ごし、理想の嫁であるイチとの時間に没入する。それこそが、信也の日常を支える背骨だった。


 だが、今は違う。市香のいる家は、もはや安らげる場所ではなく、いつ爆発するとも知れない「正体」という猛毒が充満した密室に変わっていた。


(……帰りたくねぇな)


 江ノ電の踏切が鳴り、緑色の車両が目の前を通り過ぎていく。信也はその音に背を向けるようにして、江ノ島駅の方へとあてもなく歩き出した。


 潮風が混じった空気を吸い込んでも、喉の奥の「澱」は一向に消えない。それどころか、時間が経つにつれて、その塊は粘り気を増し、食道の壁をじわじわと圧迫し始めていた。


 たどり着いたのは、江ノ島駅近くにあるファーストフード店だった。


 特に腹が減っているわけではない。信也は震える指でスマホを取り出し、ギルドマスターであるハル――ゲーム内での『風火』のアカウントを選び、短い言葉だけを打ち込んだ。


「今日のヒヒイロゴン戦は、夕飯食ってからやらせてくれ」


 それは、市香と向き合わなければならない時間を、なんとか一秒でも先送りにしたいという、信也の必死の防衛本能だった。送信ボタンを押し、機械的にコーラだけを注文すると、結露したカップを持って二階席へと上がった。


 平日の夕方。店内は地元の高校生や観光客で適度に埋まっていた。


 空いている席を探して視線を走らせた瞬間、信也の心臓が不自然なリズムで跳ねた。


 窓際のカウンター席。


 西日に照らされたその背中に、見覚えのある白いシュシュが揺れていた。


 市香だ。


 彼女はスマホの画面をじっと見つめたまま、手元のポテトを所在なげに弄んでいる。その横顔には、朝の食卓で見せたあの「氷のような無表情」が、より深い陰影を伴って張り付いていた。


 その光景を見た瞬間、信也の脳裏に忌まわしい記憶が蘇る。


 イチとナガの中身を知らなかったあの日までは、こうした偶然の一致を、彼は密かに、かつ無邪気に喜んでいたのだ。


 また、以前、別の店で偶然市香を見かけた時、手に持っていたのは自分と同じ期間限定のシェイクだった。その時は「同じものを頼んじまった」と、それだけで少しだけ損した様な、双子としての呪縛を再確認したような、そんな感覚があった。


 今はどうだ。


 自分が「家に帰りたくなくて」選んだこの場所で、彼女もまた、きっと「帰りたくなくて」ポテトを齧っている。


 オンライン上の「ナガとイチ」という、魂のレベルで共鳴し合った理想的なパートナーシップ。それとあまりに無慈避な対照をなす、「信也と市香」という、逃れようもなく肉体と家系に縛り付けられた、反吐が出るほど生々しい血縁関係。その「シンクロ」の正体が、今や「地獄からの逃避」という皮肉な形で二人に纏わりついていた。


 逃げ場のなさに絶望し、息が詰まるような焦燥に駆られる。


 だが、その一方で、信也の心の片隅には、恐ろしいほどの「安心感」が芽生えていた。


(……ああ、やっぱり。お前も、俺と同じなんだな)


 同じように苦しみ、同じように逃げ出し、同じ場所で途方に暮れている。その共鳴に、冷え切った安堵を覚えてしまった。


 ――だが、なぜだ?


 その直後、信也は自分の内側から湧き出したその感情に、激しい困惑を覚えた。


 目の前にいるのは、自分にとっての唯一の聖域を、実の妹であるという「最悪の真実」で汚し、その平穏を完膚なきまでに奪い去った加害者だ。


 本来なら、その結びつきが強まれば強まるほど、自分を裏切った彼女への「怒り」で身を焼かれるはずだった。嫌気がさして、その場から一刻も早く逃げ出したくなるはずだった。


「イチ」と「市香」が、今この瞬間も、かつてないほど強固に、そして最悪な形で結びついていく。


 なのに、どうして自分は、市香の存在に、これほどまで救いを感じてしまっているのか。


 その疑問の答えを、信也は持ち合わせていなかった。


 自分自身の底知れなさに、猛烈な嫌悪感が込み上げた。平穏を奪った加害者である妹との行動の一致に、無意識にでも「イチ」との「絆」を見出した自分に、反吐が出そうであった。


 信也は二階のフロアに足を踏み入れることを辞め、階段の踊り場で立ち止まった。


 手に持ったコーラのカップを口に運び、一気に流し込む。


 暴力的な炭酸の刺激が、喉の奥をズタズタに引き裂くように通り過ぎていく。氷で冷え切った液体を飲み干し、肺の奥から突き上げてくる空気を、短いゲップとして吐き出した。


 だが、喉の澱は消えなかった。


 炭酸に激しく揺さぶられた澱は、吐き出されるどころか、さらに鋭利なエッジを持って食道に突き刺さった。物理的な刺痛となって、喉元をじりじりと焼き続ける。


 結局、何も変わらない。


 信也は空になったカップをゴミ箱に叩き込み、店を飛び出した。


 夕暮れの江ノ島駅前。


 背後にある店の窓際では、今も市香が「帰りたくない理由」を抱えたまま、動かずにいた。


 その夜、ハルとの約束通りログインしたヒヒイロゴン戦は、何一つとして好転することなく、ただ空虚な黒星を積み上げるだけの時間となった。

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