30・兄妹という関係3
アラームが鳴る数分前、信也は泥のような重さの中で意識を浮上させた。
熟睡できたとは言い難い。目を閉じれば、網膜の裏側には機械竜の長い三つ首が焼き付き、耳の奥ではアヤの鋭い叱咤と、それに応えられなかった自分の無様な沈黙がリフレインし続けていた。結局、浅い眠りの中を泳ぎ続け、疲れが取れないままに覚醒を迎える。
重い体を引きずり出すようにしてベッドを降りた信也の視線の先には、昨日、絶望とともに電源を落としたゲーミングパソコンがあった。
ふと、真っ暗な液晶モニターに自分の顔が映り込む。
二日前、そこには「夜になればマシな顔になれる」という微かな希望を抱いた自分の姿があった。だが、今、黒い鏡の向こう側から自分を見つめ返しているのは、救いようのない「敗北者」の顔だ。
全滅の引き金を引いた戦犯。
そして何より、実の妹を「嫁」として慈しみ、オンラインの聖域で甘い言葉を囁き合っていた変質者。
画面を消したままでも、そこにはもう、饒舌で献身的なヒーラー「ナガ」の面影など微塵もなかった。ただ、寝癖のついた髪と、一晩中「正体不明の澱」を喉に詰まらせていたせいで酷く淀んだ瞳をした、醜悪な現実の兄がいるだけだ。
(……ひでぇ顔だな、本当に。おい)
自嘲気味に鼻で笑おうとしたが、筋肉が強張ってそれすら上手くいかない。信也は逃げるように画面から目を逸らし、逃げ場のない自室を出た。
一階のリビングに降りると、そこには既に先客がいた。
双子の妹、織田市香。
彼女は二日前と同じように、スマホの画面をタップしながらトーストを口に運んでいた。だが、以前の「停戦状態の沈黙」とは、流れている空気の密度が決定的に違っていた。かつては単なる無関心だったはずの空間が、今は爆発寸前の圧迫感を伴って、信也の肌をピリピリと刺してくる。
市香の首筋で揺れる、清潔感のある真っ白なシュシュ。
「江の島のカモメの羽」と形容したその白さが、今は呪わしい標識にしか見えない。それは決して派手に主張しているわけではない。だが、堂々と目立ちすぎていないからこそ、逆に嫌らしく、吸い寄せられるように目が奪われてしまうのだ。
その清楚な白さが、ゲーム内で幾度となく見惚れ、守り抜こうと誓った「イチ」のドレスアーマーの白いフリルと重なり、信也の脳内でバグを引き起こす。
視界に入るだけで、ボイスチャットで聞いたあの悲鳴が、彼女の生々しい実体となって鼻腔の奥に「汗の匂い」を蘇らせる。信也はまともに彼女の方を向けず、視線を泳がせながら自分の席に着いた。
「……」
信也の喉の奥では、例のドロドロとした不快な感触が広がっていた。
以前なら「醤油」の一言で済んでいたはずだ。だが、今の信也にはその一言さえ、喉に詰まった熱を帯びた「澱」に邪魔されて発することができない。
ここで声を出せば、その声の響きそのものが、昨夜のボイスチャットで漏らした「ナガの声」として市香に届いてしまう。自分の「声」そのものが、彼女を「あちら側」へ引きずり戻し、自分を「こちら側」へと暴く凶器であることを自覚し、信也は恐怖した。
結局、醤油の瓶に手を伸ばすことすら諦め、信也は無言で、冷めかけた味のない目玉焼きを胃に流し込んだ。
静かなリビングに、カチカチという食器の音と、異常に大きく聞こえる咀嚼音だけが響く。それは、昨夜ボイスチャットを切らされた後の、あの絶望的な操作音のようにも聞こえた。
「あら、おはよう二人とも。今日は随分と静かね」
今日は仕事が休みなのか、エプロン姿の母親がのんびりとキッチンから現れた。
彼女は何も知らないまま、香ばしく焼き上がった鯖の塩焼きを二人の前に並べる。
「二人とも、昨日はゲームの音が早く消えたのに、随分と夜更かししたの? 顔色がひどいわよ」
無邪気な一撃。
昨夜、二人の間で「何」が起きていたのか。なぜ音が消えた後も熟睡できず、壁一枚を隔てて互いの存在に怯え続けていたのか。何も知らない母親の問いかけが、二人の傷口を正確に、かつ残酷に抉り抜く。
その瞬間、耐えきれなくなったように、市香だけがガタリと激しく椅子を引いて無言で立ち上がった。
たった二日前にはあったはずの、「先行くね」という最低限の宣告すらなかった。
市香はスマホを乱暴にカバンに放り込み、一度も信也の方を振り返ることなく、逃げるように玄関へと向かった。
バタン、と。暴力的な音を立てて、玄関のドアが閉まった。
再び訪れた静寂の中で、信也は箸を止めたまま、ぽっかりと空いた市香の席を凝視していた。
(……「先行くね」くらい、言えよ……)
あんなに会いたくない、顔を見たくないと思っていたはずなのに。
その一言すら失われた事実に、信也は不意に、言いようのない「寂しさ」のような感情を抱いている自分に気づき、愕然とした。
声を聴くのが怖い。声を出せば、自分のすべてが露呈してしまうのが恐ろしい。
なのに、心の一部では、彼女の声を、あの慣れ親しんだ「イチ」としての明るい音色、あるいは「市香」としての冷淡な一言ですら、求めてしまっている。
会いたくないのに、触れたくないのに、声が聞きたい。
自分の中に生じているこの矛盾に、朝から割れるような頭痛を覚え、信也はこめかみを押さえた。
世界が断絶していたあの頃が、酷く懐かしかった。
今、世界は、最悪な形で、救いようのないほどドロドロに混じり合い、繋がってしまっていた。
信也は残った鯖を二人分、無理やり飲み込んだ。
喉を通る魚の感触が、昨夜の敗北の記憶と重なり、吐き気を催す。
信也は重い足取りでカバンを掴み、崩壊した日常の続きを生きるために、一歩、外へと踏み出した。




