29・二十回目の全滅
自室の椅子に深く沈み込み、信也は再びヘッドセットを耳に当てた。
デバイスが起動し、鼓膜を微かなホワイトノイズが震わせる。だが、その無機質な電子音は、数分前まで食卓で向かい合っていた市香の「汗の匂い」や「味噌汁を噴き出した姿」を遠のかせてはくれなかった。むしろ、デジタルの壁が薄皮一枚剥がれ落ちたかのように、現実の生々しさがモニターの向こう側へと染み出していく。
ログイン直後のパーティーチャットを切り裂いたのは、アヤの氷のように冷ややかな指示だった。
「ナガ、イチ。あなたたちは今すぐ個別のボイスチャットを切りなさい」
その言葉に、信也の指先がピクリと跳ねた。
「……え、アヤちゃん?」
ハルが戸惑ったような声を上げるが、アヤのトーンは変わらない。
「今のあなたたちは、お互いの声に過剰に反応しすぎて操作が疎かになっているわ。これからは私の指示とハルのコールだけを聞きなさい。二人の個人的な会話は、この攻略中、一切禁止よ。いいわね?」
それは、二人の声をアヤやハルからも隔離するという、非情な遮断宣言だった。
信也は重い指を動かし、ボイスチャットを切断した。同時に、耳元から市香の気配を含んだ声も完全に消失する。
だが、静寂が訪れるわけではなかった。
スピーカーからは依然として、戦場の状況を冷静に告げるアヤの声と、場を盛り上げようとするハルのエールが流れ続けている。ただ、信也と市香の二人にだけ「口」がなくなったのだ。お互いに伝えたい言葉があっても、それを届ける術は奪われた。耳だけが開かれた状態で、二人を繋いでいた細い糸が一方的に断ち切られたのだ。
だが、そんな処置を施したところで、もう手遅れだった。
(……くそ、ボイスチャットを切る事を、夕飯前に思いついて欲しかった……)
信也は、奥歯を噛み締めながら毒づいた。
夕食前、彼はまだ「音」にだけ市香の影を見ていた。しかし、あの食卓で更に「実体」を突きつけられた今、目の前で双剣を構えるイチのアバターそのものが、恐ろしいほどのリアリティを伴って「妹」に見えてしまう。
翻るスカート、細い手首、攻撃を避ける際の僅かな硬直。そのすべてが、隣の部屋で必死にマウスを握り、唇を噛んでいるであろう市香の姿とオーバーラップして離れない。
戦闘が始まっても、その呪縛は解けなかった。
画面内のイチがヒヒイロゴンの連撃に晒される。かつてはその背中に絶対の信頼を寄せ、美しき「嫁」を支えることに至上の喜びを感じていた。
だが、今の信也の視界に映るのは、守らなければならない「最愛の嫁」ではない。守るべきではない「実の妹」という、あまりに毒の強い現実だ。
そのコンマ一秒単位のの遅滞が、致命的な結果を招く。
機械竜が咆哮とともに放つ広域殲滅攻撃――「終焉の嵐」。本来ならアヤの指示に合わせてヒヒイロゴンの足元に滑りこまなければならないその時間、信也の指先はイチの事を意識するあまり、氷ついたように動かなかった。その結果、またもや全滅の引き金を引いてしまった。
「ナガ、遅いわよ! 何やってんの!」
アヤの鋭い叱咤が飛び、信也の罪悪感を、より鋭く抉った。
その後も、全滅とリスポーンを繰り返すたびに、二人の連携は目に見えて腐り落ちていった。
イチの動きからも、かつての鋭敏さは消え失せている。彼女もまた、画面の向こう側の「ナガ」に、兄としての視線を感じて萎縮しているのが手に取るように分かった。
ボイスチャットを使い始めてから、合計二十回目の全滅。
リスポーン地点の石畳の上で、四人のアバターは動くこともなく立ち尽くしていた。
アヤとハルの声だけが響く奇妙な沈黙の中、信也の喉の奥では不快な感触が広がっていた。ドロドロとした、飲み込もうとしても決して胃に落ちていかない「何か」が、食道の途中に居座って胸を圧迫し続けていた。
それが、市香の汗の匂いに当てられたせいなのか、それともボイスチャットで聞いたあの悲鳴のせいなのか。信也には、自分の中に生じているこの不協和音の正体が、どうしても分からなかった。ただ、得体の知れない熱を帯びた「澱」のようなものが、彼自身の制御を離れてじわじわと広がっていた。
「……今日は、ここまでにしましょう」
静寂を破ったのは、アヤだった。その声に怒りはなかった。ただ、救いようのない現実を淡々と宣告するような、慈悲深い拒絶。
「今のあなたたちは、攻略できる状態じゃないわ。技術の問題じゃない。何が原因かは知らないけれど、今の連携ではヒヒイロゴンの足元にも及ばない」
「あ、アヤちゃん……」
ハルが食い下がるが、アヤはそれを制した。
「無駄よ、ハル。……ナガ、イチ。頭を冷やしなさい。今のままじゃ、私たちはただの『全滅の記録』を更新し続けるだけよ」
「……わかった。すまなかった」
信也のチャットは、空虚に響いた。
「……ごめんね。お疲れ様でした」
続くイチのチャットも、感情が完全に抜け落ちているようだった。
逃げるように、四人は次々とログアウトしていく。
画面が暗転し、ヘッドセットを外した瞬間、自室の静寂が津波のように押し寄せてきた。
信也はそのまま、動くことができなかった。
喉の奥にこびりついた、あの夕食の「魚の骨由来ではない不快感」が、さらにどす黒く肥大し、胸のあたりをじわじわと締め付けている。
(……次は、どんな顔をしてログインすればいいんだ)
ナガとしてイチに何を言えばいいのか。信也として市香にどう接すればいいのか。
解決策など、どこにも見当たらなかった。
ドサッ。
隣の部屋から、市香がベッドに倒れ込む生々しい音が聞こえた。
壁一枚を隔てて伝わってくるその微かな振動が、彼女の存在を、彼女の焦燥を、信也に突きつける。
信也は電気も点けず、暗闇の中でただ荒い息をついていた。
明日になれば、また「普通の兄妹」として顔を合わせなければならない。
だが、あの汗の匂いと、耳に張り付いた悲鳴のような声を、どうやって忘れればいいというのか。
今日のこれは、もはや単なる敗北ではなかった。
兄妹という、疑う余地もなかったはずの日常が、根底から崩れ去った証明であった。




