28・夕飯2
階段を一段、また一段と降りるごとに、耳の奥でリフレインする「ナガ君、走って!」という悲鳴が、憎らしい程に鮮明な現実へと侵食してきた。
一階に降り立った瞬間、鼻をくすぐったのは昨日とは違う、醤油の焦げた香ばしい焼き魚の匂いだった。
食卓に着いた信也の正面は、まだ空席だった。
信也は逃げるように、先に箸をつけた。温かいはずの焼き魚を口に運ぶが、脳内ではまだ機械竜の咆哮と、それに重なるイチの悲痛な叫びが止まない。耳の奥に残るデジタルな残響が、現実の咀嚼音をかき消そうと暴れ回っている。
数十秒後、二階から響いてきたのは、昨日のように階段を叩き切るような乱暴な音ではなかった。どこかぎこちなく、躊躇うような、微かな足音。
遅れて降りてきた市香は、一度も信也と目を合わせることなく、正面の席に滑り込んだ。
途端に、焼き魚の芳醇な香りの中に、異質な「ノイズ」が混じった。
(……汗の、匂い……)
石鹸の清涼感とは違う、生々しく、少し酸っぱい汗の匂い。
それは、つい先ほどまで死闘の中で彼女が流していた「焦燥」そのものの匂いだった。昨日なら「お前、汗臭いぞ」と一蹴できたはずのその気配が、今はボイスチャットで聞いたあの震える吐息とダイレクトに結びついてしまい、信也の鼻腔を容赦なくかき乱す。
精神的に疲れ果てている今は、本来ならさっぱりとした和食は最高のご馳走のはずだった。だが、目の前の皿に乗った脂の乗った鯖は、匂いのレイヤーが重なりすぎて、脳が処理を拒否している。
「……いただきます」
市香が消え入りそうな声で呟いた。その声を聞いた瞬間、信也の意識は再び「あちら側」へと引きずり込まれる。
箸を動かす市香の僅かな衣擦れ、味噌汁を啜る音、喉が鳴る音。そのすべてが、ボイスチャットの高性能マイクが拾い上げていた「環境音」としてのリアリティを持って再生される。
魚の身を解し、口に運ぶ。醤油の塩気が舌を叩くはずだが、砂を噛んでいるかのように味覚が機能しない。集中しようとすればするほど、向かいに座っているのが「妹」ではなく「イチ」であるという現実が、嗅覚と聴覚を通じて脳内に直接書き込まれていくのだ。
「なによ二人とも、今日はずいぶん静かね。昨日の唐揚げの時はあんなに騒いでたのに」
沈黙に耐えかねた母親が、小鉢を運びながら能天気に笑った。
「あ、そうそう。例のマイク、ちゃんと使えたの? 埃っぽかったでしょ、お父さんの遺物」
母親の問いかけに、市香が小さく、しかし確かに首を縦に振った。
その僅かな肯定の仕草が、信也の胸を突き刺す。昨日、「カビ臭い」と馬鹿にしていたあの古いマイクこそが、自分たちの聖域を粉砕し、理想の嫁を現実の妹へと引きずり下ろした元凶なのだ。信也は喉の奥が引き攣れるのを感じ、無言で魚を咀嚼した。
だが、母親の追求は止まらない。二人の顔を交互に覗き込み、露骨に鼻を動かした。
「っていうか、二人とも、食べ終わったらさっさと風呂に入りなさい。汗臭いわよ」
――汗臭い。
その言葉が、思考の中からではなく、外側から最強のトリガーとなって信也の脳内で炸裂した。
脱衣所でのカーテン越しの石鹸の匂い。
湿った髪。
そして自分自身の、汗だくでパンイチという無様すぎる姿。
それをお互いに「見られていた」という強烈な自覚。
「……っ!?」
「……むぐっ!?」
耐えきれなくなった二人が、全く同時に味噌汁を噴き出した。
「ちょっと! 何やってんのよ二人とも! 汚いわね!」
母親の悲鳴が飛ぶが、二人はそれどころではない。
信也は激しくむせ込みながら、机を拭くために無意識に手を伸ばした。すると、反対側からも同じように布巾を掴もうとした市香の手が伸びる。指先が触れそうになり、二人は弾かれたように手を引っ込めた。
最悪のシンクロニシティ。
味噌汁を噴き出すタイミングまで一致してしまったことで、二人が「今、全く同じ記憶」を反芻していたことが、隠しようもなく露呈してしまった。
「……風呂、早く入りなさいよ。汗かいてるんでしょ?」
母親の追い打ちに、二人は今日一番の力強さで、声を揃えて拒絶した。
「「……まだいい。どうせ、まだ汗をかくから」」
その言葉が意味するものは、食事の後に待つ「あの地獄」への再入場だ。
再びヘッドセットを被り、声という名のナイフでお互いの内面を削り合いながら、あの無機質な機械の龍に挑まなければならないという、暗い決意の共有。
食卓の空気は、もはや氷点下まで冷え切っていた。
魚の骨がつっかえたわけではない。だが、喉の奥に何かが張り付いたような、もやもやとした不快な感触がどうしても消えなかった。飲み込もうとしても飲み込めない、正体不明の「ノイズ」が食道に居座っている。
結局、信也は残った焼き魚を、義務感だけで胃に流し込んだ。
向かい側で、市香もまた、機械的な動作で箸を動かしている。
昨日の唐揚げを食べていた自分たちがいかに無邪気で幸せだったか。
境界線の向こう側にいる「嫁」を、ただ理想の姿として愛せていた時間がどれほど貴かったか。
信也は最後の一口を飲み込むと、「……ごちそうさま」とだけ残して席を立った。
背後に漂う、焼き魚の香ばしさと市香の汗の匂いが混ざり合った、歪な残響を振り切るように。
階段を上る足取りは、降りてきた時よりもさらに重い。
部屋に戻れば、そこにはまだ「イチ」を演じ続けなければならない「市香」と、オンライン上の対話が待っている。
信也は自室のドアを開け、再び暗い画面の前に座った。
喉に居座る不快感は、消えるどころか、これから始まる「さらなる全滅」を予感させるように、じわじわと胸の奥を締め付けていた。




