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27・全滅

 ヒヒイロゴンの三つの首が、蛇のようなしなやかさで地面へと低く伏せられた。


 ギャリ、ギャリ、と金属の歯車が噛み合う不快な音が闘技場に響き渡る。それは、このボスが持つ数多の攻撃の中でも、予備動作が最も長く、かつ対処が最も単純とされる全体攻撃――『地を走る咆哮』の合図だった。


 タイミングを合わせて、ジャンプボタンを一度押す。


 たったそれだけの動作で、地面を伝う衝撃波は無効化できる。これまで何度も、チャットで冗談を叩き合いながら鼻歌混じりに避けてきた、あまりにも初歩的な攻撃だ。


 だが、今の二人にとって、その一瞬の空白はあまりに毒が強すぎた。


「……来るよ、ジャンプ!」


 アヤの声が飛ぶ。それと同時に、反射的に二人の声が重なった。


「「ジャンプ!!」」


 ヘッドセットのスピーカーを通じて、鼓膜を直接震わせたお互いの叫び。


 信也の耳には、今までの猫撫で声にはなかった「市香」としての生々しい焦燥が。そして市香の耳にも、普段は聞き流している「信也」としての切実な響きが届く。


 その「音」が、お互いの脳内で現実の残像と衝突し、思考を完全にショートさせた。


(……っ!)


 指先が、コンマ数秒、凍りついたように動かない。


 ナガとイチ。パーティの主力である二人のアバターだけが、地を這う衝撃波の前に、縫い付けられたように棒立ちのまま取り残される。


 ドォォォォォォンッ!!


 爆音と共に、ナガとイチのHPバーが一瞬で消滅した。

 メインヒーラーとメインアタッカー。パーティの両翼が同時にへし折れる。


「え……嘘でしょ!?」


 アヤの困惑と驚愕に満ちた声が漏れる。


 だが、軍師アヤは止まらない。彼女は即座にナガの元へ駆け寄り、蘇生呪文の詠唱を開始しようとした。しかし、ヒヒイロゴンは獲物を逃さない。三つの首が不気味に発光し、ターゲットされた者が自身の近くに他の生存者二名以上を入れてダメージを分散させなければ、範囲内にいる全員の即死が確定する「分散する怒号」のロックオンがアヤを捉えた。


「……っ、蘇生が間に合わない……!」


 アヤの悲鳴に近い声。三人以上で受けるべき攻撃を、たった一人で耐えきれるはずもなかった。


 アヤは蘇生呪文を完遂することすら許されず、凄まじい衝撃波に飲み込まれて光の塵へと消えた。最後の一人となったハルも、ボスの猛攻をたった一人で受け続け、やがて力尽きて地に伏した。


 画面は無機質な白銀の閃光に包まれ、やがて視界が暗転する。


 中央に浮かび上がったのは、ここ数日の彼らには縁のなかった、残酷な「全滅」の二文字だった。


 ボイスチャットを導入する前までの数日間、彼らが目にしていたのは、削りが間に合わないことによる「時間切れ」だった。それは、少なくとも「最後まで耐えきる腕」があることの証明でもあった。


 だが、今の全滅は違う。攻略以前の段階で、自分たちの連携が「耐えきることすらできない」レベルまで墜落したことを、無慈悲に突きつけていた。


「……ごめん。完全に、タイミングを外した」


 信也の声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「……ごめんなさい。私も、ボタン押し損ねた……」


 イチの謝罪には、いつもの甘ったるい装飾など微塵もなかった。


 ボイスチャットという「利便性」が、皮肉にもお互いのリアルな動揺を増幅させ、盤石だったはずの連携を内側から腐らせていく。


「も、もう一回やろう! 今のは慣れてなかっただけだし! 次は絶対いけるって!」


 凍りついた空気を溶かそうと、ハルが努めて明るい声を張り上げた。


「……そうね。一度死んで、タイミングは分かったはずよ。リトライしましょう」


 アヤも、その提案に静かに同調した。


 だが、地獄はそこから始まった。


 二回目、三回目、四回目。


 再挑戦を繰り返すごとに、ギルド「戦国」の連携は目に見えて瓦解していった。


 全滅の引き金は、常にナガかイチ、あるいはその両方の「初歩的なミス」だった。


 普段なら目をつぶっていても避けられる単調な攻撃に当たり、アイテムの使用順を間違える。


 その度に、ボイスチャットからはハルの励ましの声が消え、代わりに信也と市香の、重苦しい呼吸音だけが際立っていく。


「ナガ、左。……イチ、離れて」


 アヤの指示も、次第に短く、鋭いものへと変わっていった。


 そこにはもはや、戦いを楽しむ余裕など微塵もない。崩れゆく砂の城を、必死に両手で支えようとするような、悲痛なまでの義務感だけが漂っていた。


 十二度目の全滅。


 画面が暗転し、パーティ全員がリスポーン地点に放り出された時、ボイスチャットにはかつてないほど重たい沈黙が横たわった。


 誰も、次の「もう一回」を言い出せない。


 信也はヘッドセットを外したい衝動に駆られた。耳元から伝わってくる「イチの声」が、もはや愛おしい嫁のものではなく、隣の部屋で顔を真っ赤にして唇を噛んでいるであろう「市香」の気配そのものに感じられて、吐き気がする。


「……一回休憩しましょう」


 静寂を破ったのは、アヤだった。


「みんな夕飯を食べて。一度画面から離れて、お腹が満たされれば、少しは動きも良くなるかもしれないわ」


 それは提案というよりは、これ以上の瓦解を防ぐための、慈悲深い「強制終了」だった。


「……そうだね。私も、ちょっとお腹空いてきちゃったかな。アハハ……」


 ハルの乾いた笑いが、虚しくスピーカーから流れる。


「……分かった。私も、一度ログアウトする」


 イチの、感情の抜け落ちた声。


 その直後、信也の視界から「イチ」のアバターが光となって消えた。


 彼女が逃げるようにログアウトしたのを見て、信也もまた、「ああ、分かった。休憩にしよう」と短く返し、逃げるようにパソコンの電源を落とした。


 ガチリ、という物理的なスイッチの音と共に、モニターが暗転する。


 極彩色の仮想世界は一瞬で消え去り、後に残ったのは、夕闇に沈みかけた、ひどく静かな自室だった。


 信也は椅子に深く背中を預け、天を仰いだ。


 ヘッドセットを外しても、耳の奥にはまだボイスチャットの余影がこびりついている。


 仮想世界で「愛を囁き合う夫婦」を演じながら、現実では「仲の悪い兄妹」であり続ける。どちらも維持するつもりだったその相反する距離感が、ボイスチャットという「声の共有」によってかき混ぜられ、思考を修復不能なまでに混乱させていた。


(……最悪だ)


 仮想は現実に侵食され、現実は仮想を汚染してしまった。


 もはや、画面の中のイチを「ただの嫁」として見ることはできない。


 どれだけ美しいアバターが笑いかけても、その背後には「兄のパンイチ姿」に動揺し、隣の部屋で同じ空気を吸っている実の妹の存在が、影のように付きまとってくる。


 ドサッ、という音が、壁一枚隔てた向こう側から聞こえた。


 市香がベッドに倒れ込んだのだろうか。それとも、椅子を乱暴に引いた音だろうか。


 かつては「ただの生活音」として聞き流せていたその音が、今はボイスチャットの延長線上にある「彼女の気配」として、生々しく信也の神経を逆撫でする。


「……飯、か」


 アヤに言われた言葉を思い出し、信也は重い腰を上げた。


 だが、一階に降りれば、そこには同じように「休憩」を命じられた市香も来るはずだ。


 どんな顔をして、彼女と同じ食卓を囲めばいい。


 ボイスチャットで「愛してるよ」と囁いた直後の、このノイズまみれの現実を、どう処理すればいいのか。


 信也は、自分の心拍音がかつてないほど激しく響いているのを感じながら、暗い廊下へと足を踏み出した。


 もやもやとした、正体不明の不快感。


 それは、彼が大切に守り抜いてきた「理想」と「現実」の境界線が、完膚なきまでに粉砕されたことを告げていた。

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