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あがきを疾み(あがきをはやみ)  作者: 理猿
最終章 冬、奇跡再び
104/106

残り一〇〇〇メートル

 ゴール側に設置された高さ九・六メートル、幅四十・八メートルの大型ターフビジョン。映し出される馬の群れから少し離れた後方にクラッシュオンユー、青の姿が見て取れた。

 満員スタンドの一角で日鷹みどりはその姿をただじっと見つめる。呼吸が浅くなり、身震いするほどの寒さだというのに額に汗がじっとりと滲む。

「青……」

 つぶやきを風が浚い。ふと空を見上げた空の端に暗い雲が忍び寄っていた。


 

『二コーナーを終え、向正面の直線に入っていきます。ハーキュリーズはまだ先頭。しかし、後続馬も徐々に差を詰めます。二番手はジーランディア、サムシングエルス――』

 淡々と連なっていく馬名。その名を聞き逃すまいと人々は耳をそばだてる。

『――トルバドゥールは静かに息を潜めます』

 

 

◁◁◀◁ 13番 トルバドゥール(岸) 一番人気


 くだらない。

 (きし)飛馬(ひうま)は声に出さず嗤う。

 トルバドゥールを囲うような馬群。

 一方では自らの勝ちを狙いながら、一方では自らの勝ちすら投げ売ってまでトルバドゥールの体力、精神力を削ろうとしてくる。この馬に一矢報いろうという意気。グランドスラムを阻止しようとせん矜持。

 くだらない。

 そんなことをしているから勝てないのだといつまでも気付きもしない。

 勝負を決するのは小細工や小手先のテクニックでも、ましてや安いプライドでもない。騎手がなにか勝負に介在できると驕るから不純物が混じる。レースで発揮されるのは純然たる馬の力であるべきだ。それだけでいい。

 勝つ馬は勝つ。負ける馬は負ける。それだけだ。競馬場で自らの存在を証明できない者は去っていく。

 負ける馬を勝たせるのが騎手の仕事じゃない。勝つ馬を確実に勝たせる。それが騎手の仕事だ。

 だから、どこまでも透明に。

 そうすればトルバドゥールは勝ってくれる。

 

◁◁◀◁ 1番 パリスグリーン(ルピ) 五番人気


 うーん。嫌な位置だね。

 ジュリオ・ルピは小さく唸る。

 もう少し前、せめてトルバドゥールの前がよかったんだけれど。出足が悪くて少し詰まってしまったのがよくなかった。トルバドゥールの動きを見れるのはいいけれど、動いたのを見てから追い出したんじゃ追いつけない。かといって、この位置から追い出そうとすれば岸に気付かれて結局逃げられる。

 うーん。

 どうしようかな。

 パリスグリーンは素軽い馬だ。加速の滑らかさも最高速度も申し分ない。三冠牝馬の称号を与えられなかったことはボクの競馬人生を振り返った時、拭うことのできない汚点のひとつになるだろう。

 ただ、完璧な馬かと訊かれれば――答えは〝NO〟。小回りの競馬場は窮屈に走るし、アップダウンもあまり得意でない。距離も二〇〇〇メートル前後がおそらくベスト。

 やっぱりリアルビューティと一緒に年末の香港国際競走に出したほうがよかったと思うけど。――ま、終わったことを今更考えてもしょうがないね。

 ……それにしても、大分後ろで構えてるけれど、そこから本当に追いつけるのかな? 

 

◁◁◁◀ 12番 アマクニ(那須) 三番人気


 いい位置に着いた。

 那須孝介は一息つく。

 ここからは全体の様子がよく見える。

 アマクニの切れ味鋭い脚。それは歴代乗ってきた名馬と比しても屈指のものがある。血統背景からも本来マイルで勝ち切れるスピードを持った馬。そのスピードを中長距離レースで再現することができたからあのダービーでアレクサンダーに勝つことができた。

 反面トップスピードに乗ってからの持続時間は短い。どんなに優れた名刀であっても、それを振るう者によってはなまくら刀にも劣る。求められるのは紙よりも薄い完璧な間合いと呼吸を読み切ること。

 類稀なるアマクニという刀を用いた居合。時が来るのを今はただ待つ。

 有馬記念はダービーよりさらに一〇〇メートル長く、高低差のあるタフなコース。漠然と走らせればアマクニのスタミナは持たない。肉体の成長と共にその身体はますますマイラーのそれになっている。おそらく中長距離を走るのはこれが最後になるだろう。

 これほどの馬がマイルを主戦場にしてしまうのは惜しいが、僕が鞍上(やね)を下りるのに合わない長い距離を走らせるのは酷な話だ。

 僕にとって最後のレース。

 アマクニにとって最後の中長距離戦。

 ぜひとも勝って終わりたいものだね。


◁◁◁◀ 16番 クラッシュオンユー(日鷹) 六番人気


 ……まだか。

 日鷹青は焦れた気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐き出す。

 最後方に控え、後ろには一頭のみ。

 このレース、追い込みで勝つためには早仕掛けで捲っていくしかない。最適なタイミング。最適なルート。それを絶えず変化していくこの生きたレースの中で見極めなければならない。

 もう一度肺に空気を入れ、すべて吐き出す。血流に乗って全身に酸素が巡る。曇った窓ガラスを拭うように思考がクリアになっていく。

 大丈夫だ。私ならできる。

 三コーナーに突入する前、向正面のこの直線から速度を上げていく。が、目印となるハロン棒がなかなか見えてこない。気持ちだけがどんどんと先を往く。

 早く――、

「早く来い……」

 噛み締める口元から言葉が漏れる。


  

 内ラチの中に設置された紅白模様のハロン棒。そこに記された数字は「5」。先頭、ハーキュリーズの鼻先がそこを通過する。

  

 残り――一〇〇〇メートル。 

 

 十六頭の群れが俄に隆起する。薄弱とした胎動がまたたく間に大地を揺らす。最初に大きく動き出したのは――クラッシュオンユー。

『一〇〇〇メートルを切りました。各馬徐々にスピードを上げていきます。外を捲って上がってくるのはクラッシュオンユー。ここで仕掛けました。じりじりと差を詰めていきます』

 後方から馬を抜いていく。アマクニ、エイライスクリーム、ナイトフォール、パリスグリーン――。よし。このまま捲っていって四コーナー出口、最終直線入り口で先頭に立つ。直線に出てしまえば後は――。

 ――ブンッ――。

「――え?」

 左耳のあたりで鋭くなにかが風を切る。左後方に視線を奪われる。視界を覆う黒鹿毛の馬体。右眼の黒い遮眼革。緑の帽色。黒・緑うろこ・黒袖白一本輪の勝負服。鞍上――那須孝介。

「――アマクニ……!」

 瞬間、アマクニがクラッシュオンユーの更に外を覆い被さるように捲る。脳の奥底から記憶が掘り起こされ、シンザン記念の映像が重なる。

「! しまっ」

 だが、気付いてからではすでに遅かった。クラッシュオンユーの通るはずだった道筋をアマクニが掠め取る。クラッシュオンユーは騎手の意に反して本能的に内に進路を取った。正面に現れるのは馬によってできた壁。

 図られた。

 青は下唇を強く噛む。

 アマクニと同じ脚質のクラッシュオンユーをここで潰しにきたのだ。アマクニは、那須は、クラッシュオンユーが捲り始めるこの瞬間を待っていた。そして確実に潰す自信があった。すべては掌の上。

 その時、手綱を強く外に引かれる。

「! ……クラッシュ」

 外。クラッシュオンユーは外に出たがっている。

 ――もう一度外に出して捲れ。

 そうクラッシュオンユーが告げる。

 ロスは大きくなるが、今外に出せばまだ間に合う可能性はある。ジャパンカップでの最後の直線でもトルバドゥールを外に出して勝つことができた。クラッシュオンユーでその再現ができれば。不可能ではない。

 もう一度手綱を引かれる。

 あの感覚はまだ身体に残っている。

 ……いける。私なら。

 

 馬群は速度を上げて三コーナーへと呑み込まれていく。

次回は4月21日(火)公開予定です。

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