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あがきを疾み(あがきをはやみ)  作者: 理猿
最終章 冬、奇跡再び
103/106

さなぎ

 スタンド正面の直線。

 高低差二・二メートル。最大勾配二・二四パーセント。中山競馬場名物のゴール前の急坂も、まだスタートしたばかり、一度目の坂ということもあって全馬勢いよく駆け上がっていく。篠突くような馬蹄。雨のかわりに浴びせられるのは十万の喚声。

『サムシングエルスに追い立てられるように馬群は縦に伸びていきます。ハーキュリーズ先頭変わらず、続くのはジーランディア、そのすぐ後ろ、ここにサムシングエルスがぴったりと張り付きます。さあ、一昨年のダービー馬は千崎との初タッグで蘇るのか』

 スタートから早くも八〇〇メートル。一コーナーに入っていく。


  

◁◀◁◁ 9番 サムシングエルス(千崎) 七番人気


 前だ。前に着けろ。

 千崎(せんざき)いさなのアンバーの瞳がギラリと光る。

 好位追走は競馬の鉄則。前につけて最後に差す。初の中央G1挑戦となったチャンピオンズカップでは、らしくない消極的な競馬をして大敗を喫した。二桁人気の馬。能力が足りなかったからしょうがない――そんな慰めだか侮蔑だかわからない言葉に無性に腹が立った。

 足りなかったのは俺だ。俺の能力だ。実力だ。

 地方所属騎手だからしょうがないなんて言葉は聞きたくない。そんなのはわかりきっていたことだ。それでも俺は足掻いてきた。いくら小さなレースでの勝利を積み重ねても、大レースで勝てないような騎手は結局歴史に名を残すことはない。

 勝たなければ意味がない。当然だ。

 だが、ダービー馬といえどピークを過ぎた馬で史上最強馬に勝てるのか。

 無謀。無駄。徒労。不毛――。

 否定する言葉なんて挙げようと思えばいくらでも挙げられる。 

 上等だ。それくらいじゃないとここで走る意味がない。騎手をやる意味がない。見せてやるよ、俺の力。

 俺を――〝千崎いさな〟を御覧じろ。


◁◀◁◁ 7番 マリアブレス(成海) 四番人気


 マリアブレスは三番目にいい馬だ。

 成海(なるみ)竜児(りょうじ)は鋭い視線を周囲に巡らす。

 オッズの人気順が四番目なんてのは関係ない。所詮オッズなんてのは行き着くところ人気投票にすぎない。このレースにおいてトルバドゥール、アレクサンダーに次ぐ馬。それがマリアブレスだ。アマクニでもパリスグリーンでもましてやクラッシュオンユーでもない。

 昨年の秋華賞、エリザベス女王杯で連勝。今年の牡牝混合G1においても優勝はないものの好成績を収めている。いい馬だ。

 ――だが、足りない。いい馬では足りないんだ。

 常識の埒外にハミ出た化け物たちを倒すためには、それではまだ足りない。

 手綱を操りコースを締める。ペースを上げれば後ろの奴らの思う壺だ。能力が足りなければ技術で補ってやればいい。俺ならできる。これまでもそうやってきた。これからもそうだ。

 南関の王の肩書にも、そろそろ飽きてきたところだしな。


◁◀◁◁ 10番 ストームペトレル(猿江) 八番人気


 現役最強馬の手綱を手放した。

 猿江(さるえ)(けい)は下唇を噛む。

 秋の天皇賞。レース前にあんな啖呵を切ったのに、逃げるようにトルバドゥールの鞍上を下りた。次のジャパンカップには日鷹が乗り、勝った。あれだけ日頃先輩風を吹かせているというのに、ここまでくると笑い話にもならない。

 じゃあ、俺が、勝利に最も近い馬から下りた俺が今日このレースで勝利を目指すというのは愚かなことだろうか。――まあ、その通りだろう。否定するつもりもない。だが、だからといって勝利を諦めるつもりもない。

 躓いてしまったのなら、また立ち上がればいい。走り出せばいい。諦めの悪い奴の前にだけ勝利は転がり込んでくる。

 そうやって俺はここまで騎手としてやってきた。

 弱音を吐くな。下を向くな。

 額の古傷が疼く。そうだ。あの時の痛みを思い出せ。俺は一流の騎手にならなくちゃいけない。そうだろ、先生?

 まだ終わっちゃいない。始まったばかりだ。


◁◀◁◁ 11番 ルサールカ(刀坂) 十三番人気


 女に生まれてなければ私は今の立場にいないかもしれない。

 刀坂(とうさか)(あきら)の頭にまたそんな考えがよぎる。

 十月。愛ちゃんが秋華賞を勝った。

 十一月。青ちゃんがジャパンカップを勝った。

 去年、日本の女性騎手として初めてG1レースを勝ったその栄光が遠く彼方に霞む。だがそれでいい。それほど女性騎手が今年目覚ましく活躍したということだ。女性騎手だからといって割り引いて見る客など今はもうほとんどいない。文字通り私たちが勝ち取った成果だ。

 だが、それは競馬界全体を俯瞰して見た時の話。刀坂玲という騎手を見た時この一年結果はついてこなかった。騎手生活一年目を思い出すほどに苦しい時間だった。

 女だからと甘えたことはないし、いつまでも浮かれていたつもりもない。ただ、迷いがある。ここから殻を破るためにはなにかが足りないのだ。そして、それがなにか未だ掴みかねている。

 錚々たる面子が揃ったこのレースでなにかを得ることができるかもしれない。いや、手に入れてみせる。どんな手を使っても。

 だから、今日はもう少しカッコ悪くいこう。

 


『一〇〇〇メートル通過。タイムは――六十秒。速くもなく遅くもなく。平均ペースで流れます』

 直線の急坂を終え、一コーナー半ばまでの上り坂が終わる。自然、先行争いも落ち着いてくる。馬群は縦に伸びる。

『ハーキュリーズを先頭に、ジーランディア、サムシングエルス。少し離れてオクトーバームーン。さらに離れてマリアブレス、ストームペトレル、セイホーグレイト、ルサールカ続きます』

 そこでアナウンサーは一呼吸入れる。

『二番人気アレクサンダーはこの位置です』

 

 

◁◀◁◁ 5番 アレクサンダー(由比) 二番人気


 静かだ。

 由比(ゆい)一駿(かずとし)は息を吐いた。

 二コーナーに差し掛かると、ターフを暴風のように吹き荒れていた喚声が少しずつ小さくなる。入れ替わるように流麗な音楽が浮かび上がる。

 馬蹄。呼吸。心臓。筋肉。腱。骨。血液。

 アレクサンダーの身体が奏でる音。混じり気のない壮大な交響曲。強い馬にのみ赦されたソリッドな旋律。

 トルバドゥールが圧倒的な成績を上げてきたように、アレクサンダーもここまで七戦六勝三着一回。その三着もダービーでのハナ差だ。あのレース、勝ち馬との差は馬の実力ではなく騎手の地力の差だった。たった七カ月前。まだ未熟だった。

 あの頃とは違う。僕も、アレクサンダーも。

 未踏の大地に蹄跡を刻みつける者。その後ろに道はできる。今は亡き無敗の三冠馬〝大王〟イスカンダル。その偉大なる血。

 それを証明し、今日ここで越える。

 


 同刻、レースの大本命トルバドゥールは不気味な静けさで馬群後方に控える。徹底されたマーク。周囲を囲まれた窮屈な競馬。だが、それを歯牙にもかけず淡々と向正面の直線を往く。

 背後から迫る恐怖。

 その動向を気にして先行集団は牽制しあい攻めあぐねていた。トルバドゥールだけではない。パリスグリーン。アマクニ。そして、クラッシュオンユー。彼らがいつ襲いかかってくるのか。

 馬群は蛹化(ようか)していく。いくつもの思考が重なり溶け合い、羽撃く時を待つ。大きな変化が起きようとしている。そこを破り生まれるのは蝶か。あるいは蛾か。それともまったく別の怪物であろうか。

 膠着状態が続く。レースはすでに半分を過ぎた。

次回は4月14日(火)更新予定です。

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