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あがきを疾み(あがきをはやみ)  作者: 理猿
最終章 冬、奇跡再び
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Prelude to GRAND PRIX Ⅱ

『舞浜、舞浜。ご乗車ありがとうございます』

 日曜日。詰め込まれた車内から次々と乗客が降りていく。

 入れ替わるように、暗い冬の朝の冷たい空気が車内に流れ込む。

 ロングシートの席が空き、大学生くらいの女が腰を下ろす。明るいボブカットが揺れる。その前に立つ年の近い男が、窓の外ではしゃぐ人たちを恨めしそうに見ていた。女が苦笑する。

「なに、その顔」

 発車サイン音が鳴る。階段をのぼり駆け込もうとする壮年の男の目の前で無情にもドアが閉まる。武蔵野線は府中本町方面へ動き出す。

 男はセンターで分けた黒髪を掻きながら唇を尖らせた。

「なあ、やっぱ競馬場じゃなくてあっちのほうが良かったんじゃない? クリスマスイベントやってるし。競馬なんて毎週やってるんだしさ。こんな時期にわざわざ行かなくても」

「この時期は混むから遊ぶどころじゃないって。アトラクションだってすっごい並ぶし。そっちは今度空いてる時にゆっくり行こうよ」

「年末なんてどこも混んでるじゃん。じゃあさ、今日行く競馬場は空いてるの?」

 女はその質問に全く答える気がないとでもいうように、にこにことした顔をするだけだ。男は鼻を鳴らす。

「……別にいいんだけどさあ」

 そこで男は首を傾げる。

「なんで急に競馬場行きたいとか言い出したの? えっと、……アリマキネン……だっけ? おっきいレースだってことは知ってるけど、そんな競馬好きだった?」

「今日は特別な日だから」

「えっ? なんかの記念日だった?」

有馬(ありま)頼寧(よりやす)の功績を称える日だよ」

「いや、そうじゃなくて」

「まだ付き合ってもないのに記念日もなにもないじゃん」

「そうだけどさ……」

 腹落ちしない顔の男。からかうように、じゃあ、と女は切り出す。

「さっきの駅で降りて一緒にテーマパーク行ってくれたほうが嬉しかった?」

 男は素直に肯く。

 あんな二足歩行のネズミもどきの着ぐるみを見てなにが楽しいんだという言葉を女は飲み込み、

「でもね、今日はダメ。アトラクション乗ったりパレード見たりするよりずっとずっと大事なことなの。夢の国だかなんだか知らないけど、私にとっては今日の有馬記念のほうがよっぽど夢に溢れてる」

「夢? ……夢ねえ……。競馬場なんてギャンブルが好きなおっさんしかいないじゃん」

 乗り合わせたうちの数人が気まずそうに競馬新聞から視線を外したり、あてどなく視線を宙に彷徨わせる。女は肩をすくめる。

「別に若い女の子も家族連れもいるよ。それにさ、おっさんだけって言うけど、大の大人に夢見させるなんてすごいことじゃない?」

 そうだそうだと言いたげに車内のおじさんたちが無言で力強く頷く。

「……そしてそれを叶えちゃう人だっているんだよ」

 聞こえないくらいの声で女はつぶやく。男は釈然としない顔のまま、

「……まあ、美波(みなみ)さんが行きたいっていうなら行くけどさ」

「惚れた男の弱みだね」

 今日一番の笑顔を見せた美波に、男は複雑な表情で微笑んだ。

「そのかわり競馬のこと教えてよ。俺、なんにも知らないから」

「いいよ。じゃあ、そうだなあ……。

 競馬ってね、実は一番速くコースを回ってきた馬が優勝するんだよ。知ってた?」

「……いや、それくらい知ってるよ」

「はは、冗談冗談」

 屈託ない笑顔。

 白み始めた空。武蔵野線は止まることなく、次の駅、目的地である船橋法典へ進んでいく。



 金曜日に降った雪の影響はなく馬場状態は良。

 空は青く澄み、青々とした芝は風に柔らかくその形を変える。

 しゃがみ込み、そっと地面を撫でる。吐いた息が景色を白く染め、細くたなびいて消える。スタンドのざわめきに比べ、ここは膜をひとつ張ったように静かだ。

 ああ。

 ひとつひとつの感覚器官が私に告げる。

 私は今、あの中山競馬場の馬場にいるのだ、と。

「日鷹、次のレース始まるぞ」

 少し離れた所で、同じく馬場の具合を見ていた千崎が防寒着のポケットに手を突っ込みながら青に声をかける。

「わかってるー」

 そう声を張って、青は立ち上がる。

 ふと視線を巡らせると由比が空を見上げていた。青もつられて空を見る。その視線の先には一羽の鳥が飛んでいた。

「ねえ」

「え?」

「なんで馬場じゃなくて空見てるの?」

 青の問いかけに由比は少し驚いたような顔で、

「……いや、なんて鳥かなと思ってさ」

「? 鳩とかじゃないの?」

 ここからでは豆粒ほど。実際の大きさすら判然としない。青は怪訝に眉を寄せた。レース前に随分と余裕なものだ。

「鳩ではねーだろ」

 いつの間にか近くに来ていた千崎が小馬鹿にして笑う。むっとして青が、

「別にいいじゃん。あれが鳩だってカラスだって。じゃあなに? 千崎はあれなんだかわかるの?」

「知らねーよ。アヒルとかだろ」

 青はあからさまな溜息をついて、

「本気で言ってる? アヒルは空を飛ばないの」

「あれは飛べるやつなんだよ。フライングダック。最近アマゾンの奥地で見つかったんだ」

「アヒルは家禽だけど」

 二人でくだらないことで言い争っていると、 

「あれだけ自由に空を飛べたら気持ちいいだろうね」

 人の気も知らぬまま、由比は空を見上げて誰になくつぶやいた。本当に肝が据わっているというかなんというか。まあ、たしかに、こんな晴れ渡った空を飛べたらさぞいい気分がだろう。

「でもさ」

 由比が青に視線を向ける。続く言葉を待つように薄っすらと光る眼。

「案外鳥も私たちにそんなこと思ってるかもよ」

「鳥も?」

「うん。『陸上をあんなに速く走れるのかよ。すげーな。うらやましい』――とか」

「『あの千崎っていう騎手すごーい』とかな」

 話に乗っかってきた千崎に、それはない、と青はにべもなく言った。由比の口元が緩む。

「じゃあ、その期待に応えないといけないね」

「俺がな」

「私がね」

 由比の言葉に青と千崎が競い合うように言葉を重ねる。三人、無言で見つめ合う。

「――いいレースにしよう」

 誰となく言った。まるでその場にいる三人の想いが言葉として形を成したように。

「当たり前じゃん。――負けないから。絶対に」

  


「ええんか、ちょっかいかけてこなくて。最後のレースやろ」

 遠目に青たちを見て、小豆畑が那須をからかう。

「いいんですよ。若い子たちで話してるほうが楽しいでしょ。それに、別に競馬場じゃなくても話せますしね」

「なんや、レース前にあの那須騎手がえげつないプレッシャーかけてくれたほうがこっちはやりやすかったんやけどなあ」

「大人げないですよ」

「勝てば官軍。ズルもなんもない」

 きっぱりと言って小豆畑が豪快に笑うと、一人の職員が近寄ってきて申し訳なさそうに目配せする。

「……すみません。そろそろ時間が」

「おう、すまんすまん」

 小豆畑は平謝りして、

「おーい。お前らええ加減に出んとお偉いさんにどやされるぞ! はよあがれ!」

 三人に吼えた。慌てて馬場の外へと駆ける三人。それを見届けてから、那須たちも馬場の外へと足を進める。

 背後で重なる足音。そのうちのひとつがすぐ背後で消える。すぐ脇を駆けていく由比と千崎。

 振り向くと青と目が合った。

「那須さん!」 

 青の顔を見て那須も思わず歩みを止める。

「あのっ」

 声と一緒に息が白く弾む。

「今日のレースで、絶対に追いつきますっ!」

 その羨ましいほどにまっすぐとした瞳があの日の大洋に重なる。

「……ああ。待ってるよ」

「よろしくお願いします! じゃあ、またレースで!」

 そう言って勢いよく頭を下げ去り際に笑顔を見せると、青は風のように駆けていった。

 空を見上げる。曇りひとつない空を。

 いいレースになりそうだ。なあ、お前もそう思うだろ、大洋。

「おい、お前がビリッケツでどないするんや。引退レース走れんようにしたろか」

 小豆畑の急かす声。

「すみません」

 踵を返し、速度を上げる。

 


 十四時二十一分。 

 (きし)飛馬(ひうま)が一人静かにジョッキールームを出る。

 いつもと変わらない手順。いつもと変わらない表情で。

 ゆっくりと魔王の背に向けて歩みを進める。

 

 有馬記念の発走まで八十分を切った。

次回は3月31日(火)更新予定です。

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