番外編2ー1 変わっていく人々
私、アーナは、ずっと不思議に思っていることがあった。
奥様は、いつから旦那様のことを「ノル」と呼ぶようになったのか。
「ノル様と呼んでいた時、旦那様と呼んでいた時、どちらも必ず“様”は付けていた、その方が奥様らしいのに」
もちろん、本人たちの前でそんなことを口にしたことはない。けど、気になって仕方がない。
ただ周囲の人たちは、なぜかあまり違和感を覚えていないようだった。
それが、どうにも不思議だった。
「ねえ、コーネル、ひとつ聞いてもいい?」
ある日、仕事の合間に顔を合わせた奥様の護衛騎士コーネルに、私は思い切って尋ねてみた。
「ああ、構わない。どうしたアーナ?」
「奥様が旦那様を『ノル』と呼ぶようになったのは、いつからか知ってる?」
コーネルは一瞬きょとんとした顔をした。
それから、すぐに何かを思い出したように目を細める。
「結婚式の時から、だな」
「……え?」
思いもよらない答えに、目を丸くした。
「結婚式の時?」
「ああ」
コーネルは穏やかに頷いた。
「あの時、ノル様は奥様を庇って刃物で刺されただろう?」
「うん……。あの時は、本当に驚いたわ」
あの日の騒動は、私の記憶にも鮮明に残っている。
「奥様はそこにいた瀕死の3人、奥様の両親とノル様だ。奥様は誰よりも早くノル様の治療を行なった」
「うん、覚えているわ……」
「ああ。ただ、ノル様は自分よりも先にローザ様の父親を治療すべきと言われて、なかなか首を縦に振らなかったのだ」
私は、思わず苦笑した。
いかにも旦那様らしい。
「それで、奥様は?」
「『一番はノル、愛しているから』と言って、決して引かなかったのだ」
コーネルの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「その時からだな。奥様がノル様を、ノルと呼ばれるようになったのは」
「……そうだったのね。でも奥様がそこまで言うなんて」
私は静かに息を吐いた。
呼び方が変わった、たったそれだけのこと。
けれど、その一言には、きっと多くの意味が込められていたのだろう。
命の危険にさらされた旦那様を見て迷わず手を伸ばし、誰よりも大切な人なのだと告げた。
その瞬間から、奥様の中で何かが変わったのかもしれない。
「奥様の成長と、ノル様への愛情の証なのだ」
コーネルは、ふふ、と優しく微笑んだ。
その笑顔を見て、私は別のことにも気がついた。
――コーネルも、変わったわね。
以前の彼女は、もっと不器用で、どこか張り詰めた雰囲気をまとっていたように思う。
もちろん、今でも騎士としての厳しさは健在だ。護衛の任務にあたる時の目つきなどは隙がない。
けれど、最近はこうして柔らかく笑う姿を目にすることが増えた。
その理由も、なんとなくわかっていた。
「ローザ様の兄上であるアーキリム様。やっぱりそれよね」
あの方とお付き合いをされるようになってから、コーネルの表情はずいぶんと豊かになった気がする。
ふとした瞬間に見せる優しい微笑み。誰かと話している時の、楽しそうな横顔。
そうしたものを見るたびに、私は少しだけ嬉しくなるのを感じた。
人は、こんなにも変わるものなのだ。
そう考えると、もうひとつ、思い浮かぶ顔があった。
「リアル、あの子も別人のよう」
私の息子である彼も、もうすぐ七歳になる。
奥様のおかげで瘴気中毒が完治してからというもの、見違えるほど元気になった。毎日を精力的に過ごしている。
最近は、ローザ様のお子様の従者になることを目指して、勉強に励んでいる。
もっとも、結婚間もないローザ様には、まだお子様はいらっしゃらないのだけれど。
それでも、リアルは目標を変えようとはしない。
そのひたむきさが、我が子ながら微笑ましかった。
――みんな、少しずつ変わっていくのね。
私はそう思った。
そして、変わったといえば、まだまだ驚くことがある。
騎士団の人事だ。
マッツガイ副団長が騎士団長に昇進した。
そこまでは、まだ理解できる。
旦那様が、環境が改善されたこの領地の執務に専念するため、騎士団長を退任されたのだから、後任が必要になるのは当然だ。
これまで副団長を務めてきたマッツガイがその座を引き継ぐのは、順当な流れだろう。
問題は、その次だった。
あのダートウェルが、副団長に昇進したのである。
いまだに少し信じられない気持ちだった。
もちろん、彼だって騎士である。日々の鍛錬も、任務への取り組みも、決して怠っていたわけではない。
けれど、副団長という役職に就く姿を想像できたかと聞かれれば、答えに困ってしまう。
そんなことを考えていた折、当の本人がぼやいている声が聞こえてきた。
「俺、驚いたっす」
ダートウェルだった。
向かいにいたコーネルが、即座に言い返す。
「ダートウェル、それはこっちのセリフだ。腰が抜けるくらい驚いたわよ」
「ひどいっす! 普通は『そんなことない』って言ってくれるもんでしょ!」
「だって、本当に驚いたんだ」
「そこは少しくらい気を遣ってほしいっす!」
ダートウェルが情けない声を上げる。
コーネルは悪びれる様子もなく、くすくすと笑っていた。
そのやり取りを耳にして、思わず口元を緩める。
なんだかんだと言いながら、彼らはうまくやっているようだった。
マッツガイが団長となり、ダートウェルが副団長となる。
それもまた変化のひとつ。
人は経験を積み、誰かと出会い、少しずつ成長していく。
そうして変わっていく姿を、周囲の者たちが見守り、支えていく。
みんな、変わっていく。いい方向に。
そう思えることが、私には嬉しかった。
けれど。
それでも、どうしても気になることが、もうひとつだけあった。
いや、ひとつだけというには、あまりにも大きな問題である。
夕方もう1話投稿します。




