第九十六話 京の夕暮れ
永禄七年七月。三好長慶の訃報が近畿一円を駆け巡る中、今川義元による本格的な京の復興が開始された。
かつての入京勢力といえば、足利将軍を追い落とすための武力行使、あるいは兵たちによる略奪と火の海が常であった。しかし、今川勢のそれは、千年の都がかつて経験したことのない、異質で、荘厳なものであった。
黄金の鳳凰を冠した義元の輿を先頭に、軍紀を骨の髄まで叩き込まれた今川の将兵たちが、乱れぬ歩調で大路を行進する。その静寂は、武力による征服というより、巨大な「法」そのものが具現化し、歩いているかのような威容を放っていた。
義元は、義輝の承諾を受けた上で「永禄新法」の公布を行った。
「今日より、京における私的な関所を一切禁ずる。また、寺社や公家の座による利権を廃し、誰しもが自由に、等しく商いを行える場を設ける。」
義元の傍らで実務を取り仕切ったのは、明智光秀である。
光秀は、京の複雑怪奇な公家社会や有力寺社との交渉を一手に引き受け、「法」の名の下に彼らの既得権益を理路整然と解体していった。その一方で畿内の物流動線を再設計し、都への物資流入を最適化した。
畿内の経済を麻痺させていた無数の関所を撤廃。今川の「印判状」を持つ者は、一切の妨害なく通行できることを保証した。
撰銭令の厳格化、即ち 質の悪い貨幣(悪銭)を市場から排除。今川が保証する精良な貨幣のみを基準とすることで、貨幣価値を安定させた。
兵を市中に駐屯させず、特定の屯所に収めることで、軍による民への略奪を徹底的に封じた。
これにより、長年の戦乱で疲弊し、骨と皮ばかりになっていた京の経済は、劇的な回復を見せ始めた。民衆も、安価な米と火の消えない夜がもたらされ、「今川の治世」を謳歌し始めたのである。
「十兵衛よ、この景色を見るがいい。これこそが、余と其方がかつて夢見た姿ではないか」
修復された御所の楼閣から、夕刻の活気を取り戻しつつある京の街並みを眺め、義元が穏やかに微笑んだ。
光秀は深く首を垂れ、溢れそうになる感慨を抑えた。
「……恐れながら、これほど早く人心が落ち着くとは。長慶殿が守ろうとして、その情ゆえに守りきれなかったこの都が、今、義元公の掲げる黄金の光に照らされております。古き権威にしがみつく公家衆も、今川の『法』の見事さに、もはや何も言えぬようでございます」
光秀にとって、この京の、そして日ノ本の再編こそが人生の目的であった。斎藤道三に仕え、美濃を追われ、各地を放浪して見たのは、無秩序がもたらす地獄であった。彼が辿り着いた「法による救済」という答えが、今、義元という巨大な器によって現実の形を成そうとしていた。
一方で、光秀は、この静謐の中に潜む不穏な気配を敏感に察知していた。
「義元公、京の表層は整いました。しかし、まだ地裏の『毒』が抜けておりませぬ。西の三好、そして北の朝倉や東の武田……彼らはこの黄金の輝きを、眩しすぎると感じ、同時に自らの影を消されることを恐れております」
光秀の言葉通り、三好長慶という柱石が外れた今、畿内は今川一色に染まったように見えて、その実、地下水脈のように不満と野心が渦巻いていた。
義元は半兵衛の進言を受け、手にした黄金の扇子をパチンと音を立てて閉じた。
「毒もまた、法という器に組み込めば薬となる。十兵衛、次は堺だ。長慶殿が愛したあの自由の街を、我が法の膝下に下させよう。堺の商人たちの知恵と富があれば、我が法は日ノ本全土を覆う真の黄金となる」
京の街に、夕刻の鐘が鳴り響く。
三好長慶という「情」に殉じた男の時代が完全に終わり、今川義元という「法」を体現する男の時代が、京を中心に放射状に広がり始めた。
だが、義元は知っていた。桶狭間の信長の如き突撃を見せた長慶が、死の淵で自分に託したものは、単なる領土ではなく「人を人たらしめる秩序」であるということを。その重圧を感じながら、義元は沈みゆく夕日に向かって、静かに宗三左文字の柄を撫でた。
「長慶殿。貴殿が見たかった世、この義元が、必ずや成し遂げてみせよう」
黄金の静謐。それは嵐の前の静けさでもあった。
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