第九十五話 追憶
山崎の激戦から二月後、京の都は今川義元の軍勢によって静かに、そして厳粛に守護されていた。略奪も騒乱もなく、ただ黄金の旗印が七月の風にたなびく様は、新たな秩序の到来を予感させた。
二条御所。かつて三好長慶に実権を奪われ、今は「黄金の法」を掲げる義元を迎え入れた将軍・足利義輝は、庭園の緑を眺めながら、義元と対峙していた。
「……長慶が、死んだか」
義輝の言葉は短く、どこか物悲しかった。手元には、かつて長慶から贈られた名刀が置かれている。
「義元。其方にとって長慶は、天下を争った宿敵であったろう。だが、余にとっては……あれは、実に奇妙で、複雑な男であった。室町の秩序を壊した張本人でありながら、あやつは常に古き権威や情に囚われ、どこか非情になりきれぬところがあった」
義輝は自嘲気味に笑い、かつて京を支配しながらも寂しげに遠くを見つめていた長慶の横顔を振り返った。
「非情に徹し、室町を根底から踏み潰していれば、あやつはもっと長く天下を維持できたのかもしれぬ。だが、あやつは情のために身を削り、その板挟みの中で死病を招いた。実に、難儀な男よ」
義輝は、長慶と交わした対話を振り返る。
「連歌を好み、禅を語り、常に『静謐』という言葉を口にしていた。実のところ、あやつは戦を誰よりも忌み嫌っていたのではないか。三好の家を支えるために、弟たちを失いながら戦い続け、非情になろうと自らを律していたが……その実、芯の部分はあまりに繊細であった」
義元は、牡丹の花に視線を落としながら、山崎の地獄で肌に感じた「死」の予感を静かに語り出した。
「公方様。山崎の戦の最終盤、長慶殿が病を押して見せたあの気迫……あれは、かつて桶狭間で私を死の淵まで追い詰めた、あの織田信長に迫るものでございました」
義元の声に、微かな震えが混じる。それは恐怖ではなく、極限の執念をぶつけ合った者への敬意であった。
「桶狭間で、私は松井宗信ら多くの忠臣を失い、かろうじて生き延びました。長慶殿の最後の一撃には、あの信長と同じく、己の命すべてを糧として爆発させるような、凄まじい『力』が宿っておりました。一歩間違えれば、この義元、今ここには居なかったやもしれませぬ」
「左様か。あの長慶が、それほどの狂気を見せたか……」
義輝は意外そうに眉を上げたが、すぐに納得したように頷いた。
「それは、あやつが最後に残した『三好』という家への、あるいは弟たちへの意地だったのであろうな。その狂気を引き出させたのは、其方が掲げる『黄金の法』があまりに眩しく、正しかったからに他ならぬ」
義元は深く首を垂れた。
「長慶殿は、戦国の濁流の中で、ただ一人『人』として立とうとしたのかもしれませぬ。長慶殿が成せなかった『静謐』を、私はこの『法』という形に変えて、永久に刻み込みましょう」
「義元。長慶が逝き、一つの時代が終わった。これからは其方次第だ」
義輝は立ち上がり、庭園に向かって深く息を吐いた。
「だが、覚えておいてくれ。あの非情になりきれなかった男が、この都を守ろうともがき苦しんだ日々があったことを」
「しかと。この黄金の旗印に懸けて」
都に夕刻を告げる鐘の音が響き渡る。
三好長慶という「情」に殉じた男の物語が閉じ、今川義元という「法」を体現する男が、新しい日ノ本の幕を上げようとしていた。
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