第九十四話 長慶の遺言
山崎から、飯盛山城へと退いた三好長慶。
かつて天下をその手に収めた巨星の灯火が、今まさに消えようとしていた。
三好長慶は飯盛山城に運ばれて以来、ほぼ二月の間、深い闇の底を彷徨うように昏睡を続けていた。その間、三好の屋台骨は三好長逸ら一族の長老、篠原長房や松永久秀によって辛うじて支えられていたが、誰もが「その時」を覚悟していた。
とある夕刻、奇跡は起きた。死の淵にあった長慶が、静かにその目を開いたのである。
「……皆を、集めよ」
その声は微かであったが、凛とした威厳を保っていた。
急ぎ枕元に呼ばれたのは、一族の跡を継ぐ三好重存(十河重存。十河一存の子。跡継候補として養子としていた。後の三好義継)、そして三好政権を長年支えてきた三好長逸らであった。
重臣たちは涙に暮れ、主君の最期の言葉を胸に刻んで部屋を去っていった。
「……久秀を。弾正を、ここへ」
枕元に最後に呼ばれたのは、三好家の栄華と闇を誰よりも近くで見守り続けてきた男、松永久秀であった。
久秀が覚悟していたのは、病の苦痛に歪んだ顔か、あるいは今川への呪詛を吐く狂気の姿であった。しかし、そこに横たわる長慶の表情は、驚くほど穏やかなものに戻っていた。
「……久秀か」
山崎での荒々しき姿が、若き日の「三好長慶」であるとすれば、連歌を愛し、禅を組み、一国の静謐を願っていた、理知的で優しき晩年の「三好長慶」がそこにいた。
「長慶様。……此度の不手際、この久秀、死してお詫びを」
久秀が畳に額を擦りつける。しかし、長慶は微かに首を振った。
「よい。……殉死などは、断じて許さぬぞ。そんな無駄なことで其方という才を失わせるな」
長慶は、京の方角を見つめるように目を細めた。
「山崎で、義元の黄金を見た。あれは、ただの飾りではない。人の理を、法を、一つの形に纏め上げようとする意志の輝きよ。……認めざるを得まい。儂が義元を討てなかった以上、三好は今川の法という大海に飲み込まれ、消えてゆく運命にある」
長慶の言葉には、深い諦念と、それ以上の哀しみが混じっていた。
「……その運命に抗おうと、無理を通しすぎてしまった。その無理が、冬康を……心優しき弟を、死なせてしまった。儂の執念が、三好の柱を叩き折ったのだ」
長慶の目に、一筋の涙が伝う。三好の天下を守ろうとし、その結果、最も守らなければならぬものを守れなかった。その痛みが、死を前にした長慶の胸を締め付けていた。
長慶は、震える手で久秀の衣を掴んだ。その瞳には、残された跡継ぎ、三好重存への複雑な想いが宿っていた。
「久秀……。重存に、其方が仕えるに値する器量があれば、支えてやってくれ。三好の灯を、繋いでやってくれ」
一度言葉を切り、長慶は久秀を真っ直ぐに見据えた。
「だが……もし、そうでないならば。三好という名に拘るな。重存に器量なしと見れば、其方の望むままに生きよ。今川の明智十兵衛光秀や竹中半兵衛重治といった将星の才に、其方の才は決して劣るものではない。天下に通ずる才は、天下の為に使え」
それが、天下人として、そして一人の友としての長慶の最期の願いであった。
「久秀の活躍、楽しみにしておるぞ……」
夜風が吹き抜けたその刹那、長慶の手から力が抜け、その瞳からゆっくりと光が失われていった。
「……長慶様……。貴方は、どこまでも残酷な御方だ。貴方のいない世で……私にまだ生きろと、そう仰るか」
久秀は動かなくなった長慶の手を握りしめたまま、静かに肩を震わせた。
松永久秀が、その生涯で唯一、心から畏敬した男の最期であった。
永禄七年七月。三好長慶、病没、享年四十三。
室町幕府を震撼させ、戦国初の「天下人」とも称された三好長慶の生涯は、ここに静かに幕を下ろした。
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