第九十三話 山崎の戦い 九
山崎の隘路は、今や両軍の血でぬかるむ地獄と化していた。三好長慶の狂気とも言える突撃は、精強を誇る今川本隊をも押し込み、黄金の旗印をじりじりと後退させていた。今川義元が放った「鶴翼の陣」も、篠原長房の奮戦により、包囲の網をこじ開けられていく。
「義元ッ! 貴様の『法』ごと、冥土へ連れて行ってくれるわ!」
長慶が冬康の形見の刀を振り上げ、義元の本陣へと肉薄したその刹那。義元の脳裏を、かつて桶狭間で自分を死の淵まで追い詰めた、あの織田信長の猛り狂うような突撃が掠めた。
(……あの時の信長の如き突撃。此度は凌げるか。……宗信、力を貸してくれ)
義元は心中で、かつて己を救って散った忠臣・松井宗信の名を呼んだ。刀を握りしめる手に、かつての恐怖を打ち消すほどの力がこもる。
しかし、天命は残酷な形で介入した。
「……が、はっ……!」
長慶の口から、鮮烈な朱が噴き出した。刀を振り上げようとした右腕が、唐突に力を失い、空を切る。長慶を支えていたのは、今川への憎悪という名の「熱」であった。だが、その熱がついに、病に蝕み尽くされた彼の肉体の限界を焼き切ったのである。
「長慶様ッ!!」
主君の崩落を目の当たりにした篠原長房は、戦慄とともに咆哮した。今、ここで立ち止まれば、三好軍は今川の鶴翼に飲み込まれ、完全に壊滅する。長房は己の背後に迫る包囲網を顧みず、手勢を率いて長慶の下へ文字通り肉弾となって突っ込んだ。
「開けッ! 道を開けろぉッ!! 三好の道は、この長房が切り開く!」
長房の大太刀が風を切り、今川の隊列を内側から食い破る。再度閉じようとしていた「翼」を、彼はその剛勇のみで強引にこじ開けた。
「長慶様をお連れしろ! 戻るのだ、西へ!」
長房は溢れ出る血を拭いもせず、意識を失いかけた長慶を担ぎ上げ、馬へと押し込んだ。その姿は、血に染まった仁王の如き威容であった。
「……追え! 三好長慶を逃がすな!」
今川の陣営からも声が上がった。しかし、その声に力はなかった。
二日間にわたる激戦、そして長慶の捨て身の一撃を受けた今川軍もまた、限界を迎えていた。松平元康の三河衆、岡部元信の遠江衆は疲労困憊、勝家の美濃、尾張勢も削られ、義元の本隊も長慶の突撃によって甚大な損害を被っていた。
本格的な追撃を行おうにも、兵たちの足は泥に囚われ、馬は息絶え絶えである。一歩間違えれば、どちらが「潰走」してもおかしくない紙一重の状態。義元は、自ら抜き放った「宗三左文字」を静かに鞘に収めた。
「……追うな。もはや、追える兵はおらぬ。この山崎に、これ以上の血は不要ぞ」
義元の重い言葉とともに、今川軍は前進を止めた。
山崎の空は、いつの間にか紫黒色の夕闇に包まれていた。
篠原長房に守られ、意識を失った長慶を乗せた一団が、霧の向こうへと消えていく。今川軍はそれを見送るしかなかった。
そこにあるのは、勝利の凱歌ではなく、ただ膨大な死と、互いの執念が共倒れになった後の、重苦しい虚無感だけであった。
永禄七年五月。山崎の合戦は、決定的な決着を見ることなく、両軍の凄惨な消耗という形で幕を閉じた。
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