第九十二話 山崎の戦い 八
山崎の隘路。三好長慶の車掛かりの猛攻は、精強を誇る今川本隊をも押し込み、黄金の旗印をじりじりと後退させていた。
三好長慶の本隊が遂に隘路を突破した。
しかし、今川義元はただ押されているわけではなかった。
「……今だ。鶴翼に開け」
義元の静かな号令とともに、後退していた今川本隊が左右に割れるように展開。それと呼応し、側方を固めていた浅井長政の近江勢と西美濃三人衆の軍勢が、まるで巨大な鳥が翼を広げるが如く、三好軍を包み込むように動き出した。
これこそが義元の狙い、鶴翼の陣による包囲殲滅である。
三好の「車掛かり」は一点突破には凄まじい威力を発揮するが、隘路を突破後は長蛇の陣、即ち縦一列の長い陣に成らざるを得ず、側面からの攻撃には脆くなる。今川の翼が三好の退路を断ち、じわじわとその包囲網を狭めていった。
「包囲されたか……。だが、今さら退く道など、この長慶にはない!」
長慶は、左右から迫る浅井や三人衆の脅威をあえて無視した。陣形が包囲されようとも、その中心にいる義元の首さえ獲れば、すべては覆る。長慶は冬康の形見の刀を抜き放ち、全軍に吼えた。
「突っ込めッ! 鶴翼の弱点は翼の起点、その中心! 目指すは義元の首一つッ!」
三好の本隊は、包囲を恐れずさらに速度を上げた。陣の先端が、今川の中心部、義元の本陣へと突き刺さる。
この包囲に対して、獅子奮迅の働きを見せたのが篠原長房であった。
「今川の小賢しい陣など、我ら阿波・讃岐の武士が踏み潰してくれよう!」
長房は、今川の鶴翼が閉じようとするその一点、浅井長政と美濃三人衆の部隊が連結しようとする箇所へ、手勢を率いて猛然と突っ込んだ。
長房の大太刀が一振りされるたびに、今川の精鋭たちが血飛沫とともに弾け飛ぶ。
「開けッ! 道を開けろぉッ!!」
長房の凄まじい咆哮と突破力により、閉じかけていた今川の「翼」が内側からこじ開けられた。長慶が突破して出来た隙間を後続の長房が広げていく。長慶は敵の動揺を見逃さず、自身の旗本隊をさらに深く、義元の座す本陣の奥深くへと叩き込んだ。
今川の鶴翼は、三好の「死に物狂い」の力によって形を崩され始めた。
包囲する側と、突き抜ける側。
もはや軍略の教本に載るような綺麗な陣形はどこにもない。あるのは、互いの喉笛を狙い合う、泥まみれの殺し合いのみである。
ついに、長慶の先鋒が義元の親衛隊「馬廻衆」と刃を交える距離まで到達した。
黄金の扇子が、夕暮れの迫る中鈍く光る。
「……長慶殿。ついに、ここまで来られたか」
義元は初めて腰の太刀、「宗三左文字」の柄に手をかけた。




